調査・質問内容
質問番号 |
0000012622 |
状態 |
受付済 |
質問日 |
2021/07/08 |
佐賀県内で戦争孤児を預かった施設等の記録や、養育者の手記が見たい。
図書館からの回答
回答状態 |
公開済み |
公開日 |
2021/09/04 |
関連質問番号 |
0000012535 |
次の資料に記載がありました。
(1)『佐賀市史 下巻(昭和二十七年刊の復刻)』 佐賀市/編 佐賀市役所 1973
p.292-294 第二章 佐賀育兒院 昭和十四年現在の在院児童数
(2)『日本の社会事業施設史』 井村 圭壯/著 学文社 2015
p.150-168 佐賀孤児院の組織形態に関する史的研究
(3)『全国戦災史実調査報告書 昭和57年度』 日本戦災遺族会 1983
p.164-166 全国孤児一斉調査結果
(4)『因通寺物語』 久保山 正和/著 久保山 正和 2013
p.124 龍叡師が昭和二十(1945)年十二月二十八日、自坊内に開設した「戦争罹災児救護教養所洗心寮」
には、この戦争で両親兄弟と別れて、天涯孤独の身となったおよそ五十人の戦災孤児たちが~。
(5)『基山町史 下巻』 基山町史編さん委員会・基山町史編集委員会/編 基山町 2009
p.410-411 また、戦後の混乱期において、師は戦争により異国の地で父母・兄弟を失った子供たちを
収容するため、戦争罹災児救護教養所・洗心寮をいち早く開設し、孤児たちを温かく迎え入れた。
(6)『社会福祉施設等名簿 平成15年度版』 佐賀県厚生部福祉課/編 佐賀県厚生部福祉課 2003
p.88 ※昭和20年代に佐賀県内で設置認可された児童福祉施設(聖華園、済昭園、洗心寮、慈光園、
佐賀清光園、聖母)の記載があります。
(7)『佐賀県政史』 佐賀県/編 佐賀県 1979
p.351 明治二十四年九月~佐賀孤児院が建設され、昭和二十二年六月佐賀市元町に移転して清光園と
改称された。また昭和四年二月に名護屋村馬渡島(鎮西町馬渡島)に馬渡島カトリック育児院が開設
され、その後、聖母園と改称された。この二施設に加えて、済昭園(二十一年塩田町)、
洗心寮(二十二年基山町)、慈光園(二十二年唐津市)、聖華園(二十四年佐賀市)が次々に開設され~。
※佐賀県HP内『佐賀県政史』「第十章 民生の安定」で閲覧可能です。
(https://www.pref.saga.lg.jp/kiji00358692/index.html)※PDFあり
(8)『佐賀新聞 昭和21年9月22日』 2面
本県の場合孤兒は丗八名で佐賀郡春日村の西村育兒院に廿四名、三養基の清心寮に十三名、佐賀市川■(※1)
小路の天理教會に一名をり~。
(※1) 原紙データの破損により一字欠け
(9)『佐賀新聞 昭和21年12月15日』 2面
「戦災孤兒へ贈る乙女のまごゝろ」
~佐賀哺育園や育児園でわびしい年の幕を迎える戦災孤兒たちに~。
(10)『佐賀新聞 昭和22年7月29日』 2面
東松浦郡名護屋村『馬渡島』を戦災や生活難におわれて苦しむ孤兒たちの樂園にしようと九州保健■(※2)教会連盟
では■(※3)厚生課後援のもとに北九州、下関方面からこれらの孤兒五十名餘りをあつめさる二十二日から月末まで
避暑をかねた臨海保育を行つている。ここに送られた少年たちのうち戦災孤兒は約十%で~。
(※2)、(※3) 一字不鮮明
(11)『佐賀新聞 昭和22年8月21日』 2面
佐賀市元町称念寺境内にある戦争孤兒収容所清光園の子供たちは八月二日から佐賀市外嘉瀬津の平等院で楽しい
キャンプを開いている~。
(12)『佐賀新聞 令和3年1月15日』 ※インターネットでのみ公開
(https://www.saga-s.co.jp/articles/-/622653)
〈知っとるね〉洗心寮創設75年 戦災孤児のため開設
(13)『福祉新聞 平成30年5月24日』
「社会福祉法人風土記〈36〉済昭園 中」(https://www.fukushishimbun.co.jp/fudoki/19000)
光桂寺を核とする済昭園(佐賀県嬉野市)も被ばく者や原爆孤児を預かった。中国・満州から引き揚げてきた
兄弟4人、大阪空襲で両親を失った戦災孤児ら、多いときには子ども20人、老人15人が肩を寄せ合った。
(14) 『佐賀県立福祉施設あり方検討委員会報告書』
※佐賀県HP内「佐賀県立福祉施設あり方検討委員会」で閲覧可能です。
(https://www.pref.saga.lg.jp/kiji0031788/index.html)※PDFあり
p.2 児童養護施設「聖華園」も、昭和24年に民間施設として認可され戦災孤児及び貧困家庭の子供を
収容していたが、その後県立施設となっている。
参考文献
参考URL
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