調査・質問内容
質問番号 |
0000013413 |
状態 |
受付済 |
質問日 |
2024/02/18 |
売茶翁高遊外の父柴山杢之進常名の生年および略歴と嬉野で「柴山権現」といわれた理由を知りたい。
【事前に自分で調査した事項】
下記を参照したが、いずれも記載がなかった。
参照資料
・売茶翁の足跡を辿る;煎茶手帖蝸盧karo;参照2024-2-17:
https://sencha-note.com/baisao-kyoto-east/
・売茶翁;参照2024-2-17:https://ja.wikipedia.org/wiki/売茶翁
・賣茶翁略伝;参照2024-2-17:https://www.sagabai.com/main/3778.html
・売茶翁の生涯-風のように生きる;参照2024-2-17:https://saga-museum.jp/museum/exhibition/limited/2023/11/004328.html
図書館からの回答
回答状態 |
公開済み |
公開日 |
2024/07/30 |
関連質問番号 |
|
御質問の件について、次のとおり回答します。
1.「柴山杢之進常名の生年および略歴」については、次の資料に記載がありました。
(1)『佐賀医人伝』 佐賀医学史研究会/編 佐賀新聞社 2018
p.126 柴山 杢之進(寛永七~天和三年 一六三〇~一六八三)
蓮池藩医師・漢詩人・高遊外売茶翁父 ※来歴の記載あり
(2) 『売茶翁を「もっと知ろう」~そして郷里佐賀に返そう~』 田中 新一/著 和興印刷所/印刷 2010
p.2 ※略歴の記載あり
p.6 〇父親……初代柴山杢之進常名。寛永八年に生れ、天和三年正月十二日、53才で没。
法名、無穏軒柴山常名居士。初め勘兵衛と称していたが後に杢之進と改め、肥前蓮池初代鍋島直澄公に二十代の頃、
医者として召され、常名を名乗る。三十代で法橋に叙せられ養清の名をうける。別に案外という号もあり、詩文、和歌に秀で、
「五渓集」を著してからは五渓翁と呼ばれるようになった。江戸本町の蓮池邸で卒した。後に藤津郡五町田に帰葬され、
石碑が残り、村人は「柴山さん」、「権現さん」と呼んでいる。
p.12 (pp.11-16 「5.柴山家譜」)
※系図中に「初代 柴山杢之進常名(法名無穏軒柴山常名居士)(一六四七~一七二三)」の記載あり
p.17 (pp.17-20 「6.柴山家年譜と売茶翁」)
※年譜では生年が寛永8(1631)年となっている
(3) 『塩田町史 上巻』 塩田町史編さん委員会/編 佐賀県藤津郡塩田町 1983
p.729 売茶翁の父は柴山杢之進、常名また五渓とも称し蓮池初代藩主鍋島直澄、二代直之に医をもって仕え法橋に叙せられた。
天和三年(一六八三)一月十二日江戸で没し五町田に改葬された。墓地は五町田字桜、五町田小学校とんとん坂の西側に
あり柴山権現と称している。
(4)『蓮池伝記』 中野 紹太郎/編 蓮池伝記編纂部 1922
p.34 柴山杢之進
杢之進は諱常名會津の人儒醫を以て直澄公より召抱へらる西名道畹に住す
天和三年正月歿す享年五十五歳賣茶翁の父なり
2.「嬉野で「柴山権現」といわれた理由」ついては、当館の調査した資料(古文書等、古地図・絵図等歴史資料を除く)では、確認できませんでした。参考までに「柴山(芝山)権現」に関連する以下の資料を御紹介します。
(2) 『売茶翁を「もっと知ろう」~そして郷里佐賀に返そう~』 田中 新一/著 和興印刷所/印刷 2010
pp.109-110 8. 父・常名の碑
村人はこの一帯を「権現さん」「かぶと塚」と呼んでいるが、石碑のある墓丘は「柴山さん」と呼んで(後略)
※その他、常名の略歴、碑が再建されたことや、碑文等について記載あり
(5)『売茶翁』 佐賀県立博物館/編 佐賀印刷(印刷) 1983
pp.102-103 1 売茶翁の父、常名の碑
(地番、五町田字桜甲三六二九 ― 一)。土地の人はこの一帯を「権現さん」、「かぶと塚」といい、この墳丘を
「芝山さん」と呼んでいる。(中略)この墓碑については「紀念編集塩田郷土誌全」(中略)に「芝山権現」の項目で
「売茶翁の父柴山常名の墓地なり」として挙げられ、その銘文も紹介されている。しかし、その後の郷土史には
取り挙げられず、土地の人も「芝山さん」の名称だけを伝えて、正体不明の石碑として忘れ去られていた。
谷村氏が昭和三十二年十一月三日、この石碑をつきとめ、人を雇って草を払い丁重に祀った、という。
※『紀念編集塩田郷土誌全』は(6)に同じ
その他、常名の略歴、新旧の碑、碑文、五渓の資料等について記載あり
(6)『塩田郷土誌』 毛利 代三郎/編 塩田尋常高等小学校同僚会 1916
p.122 五、芝山權現
五町田小學校の西細かなる樹林の間に稍大なる石碑あり此の地を俗に柴山權現といふ賣茶翁の父
柴山常名の墓地なり芝山は奥洲の人醫を以て蓮池公直澄に召抱へらる死歿の後此に葬る
塔數字を刻す曰く(後略) ※碑文の記載あり
(7)『五町田村誌』 久保 源太郎/編 五町田村役場 1938
p.34 芝山權現 ※記載内容は(6)とほぼ同じ
(8)『佐賀県史蹟名勝天然紀念物梗概』 佐賀県史蹟名勝天然紀念物調査会 1925
藤津郡 p.6 (収録された郡ごとに頁数が異なる)
六、芝山權現
五町田村大字五町田字權現(中略)
五町田小學校の西に恰好の石碑あり俗に芝山權現と云ふ 賣茶翁の父柴山常名の墓地なり 芝山は奥州の人
醫を以て蓮池直澄公に事へ 江戸にて死し此地に葬る 實に天和癸亥孟春十二月享年五十五
(9)『佐賀県近世史料 第10編第7巻』 佐賀県立図書館/編集 佐賀県立図書館 2021
p.115 五町田懸 芝山之塔 権現原脇ニ芝山之畔八畝余在リ 塔之左右ニ松木二本在リ餘者小松
此為芝山五渓翁墓諱常名奥州會津人来仕我
正献公(蓮池初代・直澄)
要玄公(蓮池二代・直之)於蓮池于役江戸歿於本所邸、實天和癸亥孟春十二日成、
享年五十有五、帰葬於藩下邑塩田郷
(10)『蓮池藩日記 1』 峰松 正輝/[編] 峰松正輝 2021
p.94 ※宝永元年(一七〇四)十一月十日の記事
一、柴山七衛門より願候は、塩田五丁田村権現原(*五丁田中手前)と申す所へ、
祖父杢之進(*売茶翁之父)相納め候墓・屋敷これ有り候(後略)
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参考文献
参考URL
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