調査・質問内容

質問番号 0000013480
状態 受付済
質問日 2024/10/22

古賀忠道(初代上野動物園の館長)のルーツを知りたい。明治維新期父親、祖父はどのような役職でどんな人物であったか。大学入学以前の生活がどんなであったか知りたいです。


【事前に自分で調査した事項】
ネットでウィキペディアにて検索。他のサイトでもそれ以上の情報はヒットしなかった。

図書館からの回答

回答状態 公開済み
公開日 2025/03/06
関連質問番号

御質問の件について、次のとおり回答いたします。

1.「明治維新期の父親と祖父の役職」については、当館の調査した資料(古文書等、古地図・絵図等歴史資料を除く)では、確認できませんでした。
参考として、下記の資料を御案内します。
(1)『西日本新聞 1983(昭和58)年5月8日』(以下、面の記載なし)
「聞き書きシリーズ あたりまえでありたい〈2〉古賀忠道 家系」
古賀家は元佐賀藩士で、佐賀市赤松町の曹洞宗の竜泰寺がぼだい寺です。栄城(佐賀城)を囲んだ武家屋敷に住んでいたんだそうですが、明治維新のゴタゴタで、祖父が家屋敷を手放しました。
※その他、父親・忠太郎の職業(数学教師のち三井三池炭鉱に転職)や、母と姉弟についての記載があります。

2.「大学入学以前の生活」については、次の資料に記載がありました。
(2)『西日本新聞 1983(昭和58)年5月9日』
「聞き書きシリーズ あたりまえでありたい〈3〉古賀忠道 佐賀中学へ」

(3)『西日本新聞 1983(昭和58)年5月10日』
「聞き書きシリーズ あたりまえでありたい〈4〉古賀忠道 佐賀時代(1)」

(4)『西日本新聞 1983(昭和58)年5月11日』
「聞き書きシリーズ あたりまえでありたい〈5〉古賀忠道 佐賀時代(2)」

(5)『佐賀新聞 1978(昭和53)年2月5日』 5面
「メジロ 動物と私 古賀 忠道」
まだ小学生のころ、友達がメジロをかっているのを見て欲しくてたまりませんでした。小さかった私には手に入れるすべがありません。私が欲しがっているのを見て、友達はメジロとりに行こうではないかと言いだし、二~三人で出かけました。(後略)
 
(6)『佐賀新聞 1979(昭和54)年10月23日』 10面
「豊かな自然を生かそう 古賀 忠道(東京動物園協会理事長)」
私は生れたのは小城ですが、ここにいたのは五歳の頃までで、(中略)その後、佐賀中学、佐賀高校に通うようになってから再び佐賀との結びつきが生れました。中学生の頃、当時、鍋島村にあった親戚の家から約一里の道のりを歩いて通ったわけですが、(後略)

(7)『佐賀新聞 2016(平成28)年10月7日』 16面 ※カラー
「佐賀中学の偉人たち 140年の回想3 上野動物園初代園長・古賀忠道」
小学校入学前に父親が三井三池炭鉱に勤めたため、大牟田市に移り住んだ。佐賀中へは、自身も通った父親の強い勧めで入学。家族と離れ、寄宿舎や母親の実家から通学した。(中略)天山登山やマラソンで体を鍛えていたといい、(後略)

(8)『鍋島町史』 佐賀市立鍋島公民館 1981
(頁数なし) 鍋島と私 元上野動物園長 古賀忠道
私は大正四年佐賀県立佐賀中学校に入り、その二学期から鍋島村新村の母の里から学校に通いました。その旧制佐高に入ってからも同じように新村の母の里の小柳の家から通学したのですが、その間時々は市内の方に下宿をしたりしたのですが、大部分は新村から通ったので、(後略)

(9)『動物夜話』 古賀 忠道/著 雪華社 1966 
p.185(96コマ) 私は小学生時代には、山にメジロを取りに行っては飼ったりしていましたが、中学以後は家庭から離れて親類の家にいたり下宿をしたりしていましたので、動物を飼うようなことはできなかったのですが、(後略)
p.235(121コマ) 私は九州の佐賀で育ちました。いわゆる気が荒いので有名でした。私が中学にはいったころも、不良がいて短刀を持ち歩いていました。一年に一回くらいは刑事ざたが起こったのです。

(10)『動物と動物園』 古賀忠道/著 角川書店 1950 
pp.216-219(118-119コマ) ※小学校から高等学校までの生活の記載あり

(11)『時の動き 18(9)(448)』 内閣府/編 国立印刷局 1974
pp.38-40(20-21コマ) 「わが少年時代 古賀忠道氏」

(12)『國立公園 (329)』 自然公園財団 1977
p.8(6コマ) ※小学校から高等学校までの生活の記載あり

(13)『私の人生劇場』 東京新聞社/編 現代書房 1968
p.242(125コマ) 私は生まれは佐賀県ですが、(中略)中学は父の母校である佐賀中学校(旧制)にはいりました。つまり小学校を出るとすぐ親元を離れて、親類の家にいたり、あるいは寄宿舎か下宿にいたりして中学を卒業しました。旧制の高等学校にはいるについては、あまり人前でしゃべることも好きでなかった私は、文科方面は私のがらに合わないような気がして理科を選び、佐賀高等学校にはいりました。

(14)『愛育 43(3)』 恩賜財団母子愛育会 1978
p.42(23コマ) ※幼児時代の記載あり 

〇国立国会図書館デジタルコレクション【https://dl.ndl.go.jp/】
(最終アクセス日:2024.10.24)

参考文献

タイトル 注記
鍋島町史
動物夜話
動物と動物園
私の人生劇場

参考URL

タイトル 注記
国立国会図書館デジタルコレクション (最終アクセス日:2024.10.24)

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