調査・質問内容

質問番号 0000013493
状態 受付済
質問日 2024/12/13

多久市ゆかりの鶴田氏について調べております。
獅子ヶ城主であった鶴田前および嫡子賢の生年が分かりません。
いずれも没年は、天正四年、寛永三年ということですが、生年もしくは享年が分かりましたら御教示ください。

図書館からの回答

回答状態 公開済み
公開日 2025/03/06
関連質問番号

御質問の件について、次のとおり回答いたします。

1.「鶴田前の生年と享年」については、当館の調査した資料(古文書等、古地図・絵図等歴史資料を除く)では、確認できませんでした。

参考として下記の資料を御紹介します。
(1)『厳木町史 資料編』 厳木町史編纂委員会/編 佐賀県唐津市 2010
(pp.207-220 「4 岩屋鶴田氏家譜第三巻」)
p.214 同年夏六月二十八日公逝去シ玉ヒヌ(中略)其誕ノ日ヲ失ス故ニ又享年ノ数ヲ知ラス 憾ム可キナリ 或ハ按ルニ僅カ五十餘歳ナラン

(2)『岩屋鶴田氏家譜「現代語訳」』 鶴田 徹/著 鶴鳴社 2015 
p.96 同年(天正四年:一五七六)夏六月二十八日、前公が逝去した。(中略)その生誕の日が失われているので、享年も分からないのは憾むべきである。考えてみると、あるいはわずか五十余歳であろう。
※p.40に翻刻文あり

(3)『肥前鶴田氏の研究』 鶴田 徹/著 鶴鳴社 2015
pp.118-119 「一、鶴田前の生年(推定)と略年譜」
鶴田前の生まれた年はわかっていないが、(中略)父鶴田伝の歿年を永正十三年(一五一六)とし、弟妹の数、その後の出来事などから前の生年と年譜を想定してみると次のようになる。もし伝の歿年が正しくなく、もう五年~十年生きていた場合は、前の生年はこれより五~十年遅い方が、子供の生年や歴史的事実と釣り合うと思われる。
永正七年(一五〇七) 一才 鶴田伝の次男として日在城で出生(中略)天正四年(一五七六) 七十才 病歿

p.310 天正四年(一五七六)六月二十八日、鶴田前が病歿した。享年六十六位である。

p.311 鶴田家譜は、前の享年は生年月日が失われて不明としつつ、五十余才と推定している(本書は七十才と推定)。


2.「鶴田賢の生年と享年」については、次の資料に記載がありました。
(1)『厳木町史 資料編』 厳木町史編纂委員会/編 佐賀県唐津市 2010
(pp.188-206 「3 岩屋鶴田氏家譜第二巻」)
p.190(※天文)十四年乙巳某月某日長子三省翁生ル

(pp.221-230 「5 岩屋鶴田氏家譜第四巻」)
p.221 三省翁諱ハ賢(中略)天文十四年乙巳某月某日翁生ル

(p.229 寛永三年丙寅翁八十二歳)
p.230 同年夏四月二十九日翁病テ中村ノ宅ニ卒セラル

(2)『岩屋鶴田氏家譜「現代語訳」』 鶴田 徹/著 鶴鳴社 2015
p.73 天文十四年乙巳(一五四五年)某月某日長子三省翁(「編註」鶴田賢)が生れた。
※p.22に翻刻文あり

p.102 三省翁は諱を賢(中略)天文十四年乙巳(一五四五年)某月某日に翁は生れた。
※p.45に翻刻文あり

(p.111 寛永三年丙寅(一六二六)賢翁八十二歳。)
p.112 同年(一六二六)夏四月二十九日、賢翁は病んで中村の宅に卒した。
※p.52に翻刻文あり

(3)『肥前鶴田氏の研究』 鶴田 徹/著 鶴鳴社 2015
p.118 同年(※天文十四年(一五四五)) 長男賢出生(母荘山氏、以下同)
p.426 寛永三年(一六二六)四月二十九日、鶴田賢は病んで別府中村の宅に卒した。享年八十一。

(4)『厳木町史』 厳木町教育委員会 1971
pp.138-139 その後天下平穏のうち、寛永四年(一六二七)乙卯四月二十九日別府中村の地において没し、その地に葬った。諡号を「前総州別駕三省忠応府君」という。享年八十三歳であった。

(5)『厳木町史 中巻』 厳木町史編纂委員会/編集 佐賀県唐津市 2010
p.625 賢は寛永四年(一六二七)四月二十九日別府の中村で死去し、その地に葬られた。諡号を「前総州別駕三省忠応府君」という。享年八三歳であった。

(6)『松浦党関係諸家系図 第1集』 松浦党研究連合会/編 松浦党研究連合会 1980
(pp.302-317「唐津市鶴田勝氏所蔵源壽識 世系 鶴田系図」)
p.305 賢 神五郎刑部太輔 上總介五郎左エ門尉又左エ門尉 寛永三丙寅四月廿九日卒 年八十一
※同頁に前の記載あり。生年、享年はなし

(7)『相知町史 上巻』 相知町史編さん委員会/編 相知町史編さん委員会 1971
p.112 賢は寛永四年(一六二七)四月二十九日に八十三才で、中村(多久市)で天寿を終えているが(後略) 

(8)『松浦叢書 第2巻』 吉村 茂三郎/編 名著出版 1974  ※1938年刊行の復刻版
p.272
三十五 鶴田上總介源賢公墓
小城郡別府驛の近邊中村に在り、越前守之嗣君也、銘云、前總州別駕三省忠應府君、寛永四丁卯天四月廿九日行年八十三 ※同頁に前の記載あり。生年、享年はなし

参考文献

タイトル 注記
厳木町史 資料編
岩屋鶴田氏家譜「現代語訳」
肥前鶴田氏の研究
厳木町史
厳木町史 中巻
松浦党関係諸家系図 第1集
相知町史 上巻
松浦叢書 第2巻

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