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1 |
佐城 |
明け六つ暮れ六つの鐘(蛇女房) |
佐賀市
大和町久池井 |
森永 シゲ |
明治41年
(1908) |
(-) |
(あらすじ)
お医者さんに助けられた蛇が娘に化けて身の回りの世話をする内に子どもが生まれました。
ところが、雨戸を閉じて子どもをあやすのが近所の評判になったので、その様子をこっそり見ると蛇の姿になっていました。
見られたことを知った娘は、子どもに片目を置いて池に入ってしまいましたが、子どもが泣くのでお医者さんはもう片一方の目玉ももらいました。
そのため、娘は朝と夕方の6時にお寺の鐘を撞いてくれるようにたのみました。
(コメント)
「異類婚姻譚」のうち異類が人間の嫁になる話で、全国的には「蛇女房」という話型名で知られています。佐賀県内では、この話のように明六つ暮六つの鐘の由来となっていたり、有明海沿岸の長崎県寄りの地域では有明海をまたいで見える長崎県島原半島の普賢岳にまつわる話(江戸時代の噴火跡の由来)となっていたりします。(佐賀民話の会)
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2 |
佐城 |
尼さんとおしゃらさん |
佐賀市長瀬町 |
納富 信子 |
大正14年
(1925) |
さが昔話 |
(あらすじ)
山寺に住んでいた比丘尼さんに借金をお願いしたおじさんが、借金の方(かた)に「おしゃらしゃん」(形を整えた伊勢エビの殻)を置いて行ったが比丘尼さんはそれが何か知らなかった。
お参りに来た人からその正体を教えてもらった比丘尼さんは一計を案じた。それは、麓の村で、比丘尼さんが「おしゃらしゃん」を猫から取られたという手まり歌を流行らせることだった。
お金を返さないでよいと考えてやってきたおじさんに比丘尼さんはさっさと「おしゃらしゃん」を返して、お金を取り戻した。
(コメント)
佐賀県内では他に同じような話はなく、全国的にも珍しい話です。話の中に子守唄が出てきますが、子守唄は昔話の世界では謎解きの道具としてよく登場します。(佐賀民話の会) |
音声 |
3 |
佐城 |
飴がた屋さんと幽霊 (子育て幽霊) |
佐賀市長瀬町 |
納富信子 |
大正14年
(1925) |
さが昔話 |
(あらすじ)
お寺の近所の飴がた屋さんに、夜遅く顔色の悪い女の人が飴がたを買いに来た。女の人は一文銭で飴がたを買って帰ったが、それが六晩続いた。 六日たつと女の人が来なくなり、おかしいと思った飴がた屋のお婆さんは、近くのお寺に行って和尚さんにその話をした。和尚さんは「そういえばこの間埋めた女の人はお腹が大きかったなぁ」と言い、お婆さんと二人でそのお墓の所に行くと、墓から子どもの泣き声が聞こえてきた。掘ってみたら赤ちゃんが元気に育っていた。
(コメント)
東日本によくみられる高僧誕生由来譚とは異なり、佐賀では、妊婦が死んだらお腹の子は出して埋める等の習俗由来に結びついています。
佐賀市周辺では、幽霊が買いにくるのはアメガタ(餅米と麦芽に水飴を加えたもので栄養価が高く妊婦がよく食していた)とされており、今でもそのアメガタを売る店が現存しています。
なお、県内の昔話には、お産に係る習俗由来と結びついた話が多いようです。このシリーズの「産婆さんとやこ(野狐)」(佐城地区)もその一つです。 (佐賀民話の会)
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音声 |
4 |
藤津 |
有明孫兵衛話
「相撲取り」 |
嬉野市塩田町美野 |
蒲原 タツエ |
大正5年
(1916) |
蒲原タツエ媼の語る843話 |
(あらすじ)
有明孫兵衛さんは、力が強く、どんどん大きくなったので将来は相撲取りになることに決め、氏神様に願を掛けました。ある日の夜、お参りに行った帰り、女の人に赤ん坊を預かってくれるように頼まれました。夜が明けてきたので赤ん坊を見てみると、担ぎ上げているのは大きな石でした。
それから孫兵衛さんは大変な力持ちになり、横綱にまでなったそうです。
(コメント)
赤ん坊を抱いてくれるように頼んだのは産女(うぶめ)という妖怪で、重くても我慢して約束を守った人が力持ちになるという伝説的要素を含んだ話です。佐賀県内だけでなく他県でも伝承されています。(佐賀民話の会) |
音声 |
5 |
藤津 |
和泉式部と
足袋の始まり |
嬉野市塩田町美野 |
蒲原 タツエ |
大正5年
(1916) |
蒲原タツエ媼の語る843話 |
(あらすじ)
若葉の頃の朝、福泉寺の裏山で赤ん坊の声がしていた。それに気付いた和尚さんが赤ん坊を抱き上げると白鹿は立ち去った。
そこに夢のお告げがあったと大黒丸長者の夫婦がやって来て、その女の子を引き取った。女の子の足の指は鹿のように二つに分かれていたので、一年中二叉の足袋をはかせることになった。
それが足袋のはじまりで、その女の子が後に和泉式部になった。
(コメント)
和泉式部伝説は他県でも伝承されていますが、佐賀県では杵島郡白石町の福泉寺で鹿の子として生まれた話として伝承されています。また、この話と関連して、和泉式部の墓とされるものが嬉野市塩田町五反田に実在しています。(佐賀民話の会)
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6 |
三神 |
兎と猿と狸 |
鳥栖市牛原町 |
羽根 エン |
明治33年
(1900) |
とすのロ承文芸 |
(あらすじ)
兎と猿と狸が人間をだまして塩とゴザと豆を手に入れ、狸が戦利品を配分した。兎には塩を、「川に漬けておけばいつまでもなくならない」と言って渡し、猿にはゴザを、「木の股に敷いて子どもを産むと良く育つ」と言って渡して、自分は豆を取った。
狸にいわれたとおりにした兎の塩は溶けて流れてなくなり、猿の産んだ子は木の下に落ちてしまった。怒った兎と猿は狸の家に押しかけた。すると狸は豆の皮を顔いっぱいにつけて「自分も豆の皮に食いつかれた」とウソ泣きをしてみせた。
(コメント)
動物昔話の中でも動物葛藤というジャンルに分類される話で、全国的に広く伝承されています。他県の話では、騙されて塩を川に流してしまうのは獺とするものが多いようですが、この話では兎とされています。(佐賀民話の会)
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7 |
三神 |
兎の仇討ち
(カチカチ山) |
神埼郡吉野ヶ里町 |
大野 栄作 |
不詳 |
続・脊振山麓の民俗 |
(あらすじ)
狸が田んぼで働くおじいさんをしつこくからかったので、怒ったおじいさんは狸を捕まえ土間に吊るしておいた。吊るされた狸は、おばあさんをだまして縄をほどかせ、おばあさんを打ち殺し、おばあさんを汁にしておじいさんに食べさせたあと、実はそれがおばあさんの汁だったと明かして逃げていった。
おじいさんが悲しんでいると、兎が出てきてなぜ泣いているかと聞いた。事情を知った兎は、言葉巧みに狸を誘い、薪拾いに出かけて狸にやけどさせたり、泥船に乗せて狸を溺れさせたりして仇討ちをした。
(コメント)
佐賀では、伝承度が高い話です。狸の性格が前半と後半では異なっていること等から、本来は別の話だったのではないかとも言われています。
この話には、狸が婆さんを殺して婆汁にしたり、兎が助けを求める狸を無慈悲に殺したりするなど残酷な場面がありますが、このような場面は昔話の世界では多々見られます。過去の飢饉や災害等の記憶が昔話の中に残っているからだとする説明もあります。(佐賀民話の会)
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8 |
佐城 |
内野堰の人柱 |
佐賀市大和町仲 |
山本 清吾 |
明治36年
(1903) |
(-) |
(あらすじ)
内野の石堰を築くのに人柱を立てることになったが、人選が進まないので、ある人が「鼻緒が左巻きになわれている足半を履いている者にしよう」と言った。ところが、提案した本人が左ないの足半を履いていたため、その人が人柱に立つことになった。
その後、この家の娘が口をきかなくなった。婚家でも物をいわなかったので離縁されたが、帰途、猟師が雉を撃つのを見てこの娘が「ケンケンと鳴かずば雉も撃たれまいものを」と歌を読んだ。それで「なぜ今まで口をきかなかったか」と聞いたところ、「父親がよけいなことを言ったせいで身を滅ぼしたから口は慎まないといけないのだ」と答えた。
(コメント)
この話は佐賀市大和町松梅地区の話ですが、同様な話は県内各地で広く伝承されています。人柱になる人は、この話では左ないの足中を履いた人となっていますが、他の話では、着物の「横ブセ」(破れた箇所等を繕う時、横縞の布をあてること)をした人とされ、「だから、着物の横ブセをしてはいけない」という諺の由来と結びついています。なお、この地には、自ら犠牲になるため左ないの足中を履いていたする話も伝承されています。(佐賀民話の会)
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9 |
杵西 |
姥がみとたぬきゅう
(何が恐い) |
武雄市
西川登町神六 |
井手 安次 |
明治37年
(1904) |
矢筈・神六の民俗/佐賀県文化財調査報告書第71集 |
(あらすじ)
江戸で芝居をしていたたぬきゅうという男が、郷里の親の病気の知らせを受けて帰る途中、夜に山越えしていたら山姥に出会った。女装をしてみせて気に入られたたぬきゅうが、山姥に「いちばん恐いもの」を尋ねると、山姥は「タバコのヤニが一番嫌いだ」と答えた。たぬきゅうは「自分は金がいちばん恐い」と答えて山姥と別れた。
山を下ったたぬきゅうは、ふもとの村の村人たちに、山姥はタバコのヤニが嫌いだと教え、村人たちはヤニを集めて山姥の征伐に行った。恨みに思った山姥は、たぬきゅうに仕返しをしようと思い、金をたくさん持っていって、たぬきゅうの家に放り込んだ。
(コメント)
山姥が騙されて金を投げ入れる部分は、他の話にもよく出てくるモティーフ(構成要素)です。落語にも同じような話が見られることから、この部分は、庶民に特に人気があったものと思われます。また、主人公の女装が山姥に気に入られる場面は、江戸時代、女形の人気が高かったことなどを象徴していると思われます。
山姥は、通常は恐ろしい者とされていますが、この話では愚かな者として描かれているところが面白いと思います。(佐賀民話の会)
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音声 |
10 |
佐城 |
姥捨山・灰縄 |
佐賀市諸富町石塚 |
井手 モモエ |
明治42年
(1909) |
諸富の民話 |
(あらすじ)
姥捨山に連れて行く年齢になった母親を息子は家の天井裏に隠していました。
灰で縄をなった者に褒美をとらすというお触れがでたので縄を燃やして差し出したら、殿様から誰に教えてもらったのか聞かれたので、母親のことを話しました。
それを聞いた殿様は、年寄りは世の宝だから山に捨てたりせず、長く大切にして国の宝にするように言われ、息子はたくさんのご褒美をもらった。
(コメント)
姨捨山は、全国的に伝承度が高く、佐賀県内でも数多く語られています。難題の種類には、この話にあるような灰の縄の他に、木の元と末や馬の親子の見分け方など数種類あります。(佐賀民話の会)
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音声 |
11 |
三神 |
産神と河童 |
三養基郡
基山町園部 |
野田 高徳 |
明治42年
(1909) |
基山の民話 |
(あらすじ)
夢の中で猟師は、息子が15歳の8月15日になった時、河童がその息子を取れたらやるという約束をしました。
そのため、息子が15歳になった8月15日には誰も家に来ないように連絡をして、河童から取られないように息子を大黒柱に結びつけました。
ところが、おばさんがやって来て、大黒柱に結びつけた息子の縄をほどこうとしました。このため、猟師は仕方なく鉄砲でおばさんを撃ちました。撃ってみたらおばさんに化けた河童でした。
(コメント)
生まれてくる子供の寿命を主題とする昔話で、佐賀県だけでなく全国的に伝承されています。この話は、河童にとられるとするのか8月15日のお盆だということと、河童が親類のおばさんに化けて子供をさらいにくる部分にその特徴があります。(佐賀民話の会)
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音声 |
12 |
杵西 |
絵かき座話「一杯飲まんば話されん」 |
西松浦郡
有田町泉山 |
池田 忠一 |
明治34年
(1901) |
有田町史 政治・社会編Ⅱ |
(あらすじ)
窯元さん達が宴会をやっているときに、職人の牡丹熊さんに座興で何か話をさせることになった。呼ばれた牡丹熊さんは話を催促されたが、話の前に一杯飲ませてもらいたいと思って次のような話をした。
ここにやってくる途中、蛙二匹を食べようとしていた蛇に放せと言ったら、蛇が一杯飲まなければ放せない言った。
(コメント)
「絵かき座話」とは、正確には有田の絵かき座話と言われているもので、西松浦郡有田町で焼き物に絵付けをする場(絵かき座)で伝承される大話、世間話の一群の笑話です。この話はその中でも牡丹熊さんと呼ばれる実在の人物が主人公となった話です。(佐賀民話の会)
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13 |
三神 |
縁起のとり直し |
神埼郡
吉野ヶ里町 |
井出 カタ |
不詳 |
続・脊振山麓の民俗 |
(あらすじ)
あるところに四十歳くらいの夫婦がいた。奥さんは頭が禿げていて、いつもカツラを被っていた。ある年の元旦に、奥さんが畑に野菜を採りにいき包丁で手を切ってしまった。奥さんは運の悪さを嘆き、隣のおじいさんに縁起をとり直してもらいに行った。隣のおじいさんが「元旦そうそう金が手に入る名をうった」と言ったので、奥さんは少し気分がよくなった。その後年取りの儀式の最中に、髷を結ったカツラがずれてしまった。それでまた奥さんは隣に行き、おじいさんから「元旦そうそうカツラを落とし、後に残るは福毛なりけり」と言ってもらって、気分をよくした。
(コメント)
縁起担ぎの愚かしさを笑う話は他にもみられますが、歌にして諭すものは珍しいようです。同様な話は県内では採集されていません。縁起担ぎの愚かさを笑いの対象とすることは今でも同じですが、要は、気の持ちようということでしょうか。(佐賀民話の会)
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14 |
三神 |
横道孫兵衛話
「鴨の汁」 |
神埼郡
吉野ヶ里町松隈 |
森田 官市 |
明治24年
(1891) |
吉野ヶ里の民話 |
(あらすじ)
大根ばかりの鴨汁をごちそうになった横道孫兵衛は、自分が住んでいるところには鴨が沢山いるので来ませんかとそこの主人を誘った。ところが、鉄砲を抱えてきた主人は鴨がいないので、どこにいるのか孫兵衛に尋ねました。
孫兵衛は、ごちそうになった鴨汁には大根ばかりだったので大根のことを鴨だと思って大根畑に誘ったまでだと答えました。
(コメント)
神埼(語り手によっては三田川)に住んでいたとされる頓知者の話で、地主や庄屋を知恵で負かす話が中心となっています。唐津の勘右衛門(かんね)話の神埼版といったところです。(佐賀民話の会)
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15 |
杵西 |
和尚さんと宝の化物 |
伊万里市
立花町渚 |
松尾 テイ |
大正5年
(1916) |
肥前伊万里の昔話と伝説 |
(あらすじ)
むかし、諸国修行をしていたお坊さんが化物の出るという空家に泊まった。確かに夜中に化物たちが出てきたが、お坊さんは動じず、化物たちの正体を尋ねた。すると化物は、金・銀・銅と壺の精であると答え、そこが昔の大きな長者の御屋敷跡で、地下には宝物が埋まっていると教えてくれた。
翌朝、お坊さんは村人たちに「ここの床下を掘ってみろ」と言った。みんなが掘ってみると、ほんとうに大判小判がたくさん埋まっていて、そのおかげで寺ができて、その屋敷跡のおまつりもできたという。
(コメント)
全国的には、「宝化物」という名称で伝承されています。県内での採集例は少ないようです。
この話型の特徴は、小判が化物になって掘り出してくれる人を探しているとすることや掘り出せる人は肝がすわった人であるとする点にあり、埋められた小判に対する当時の人の考え方(小判も年が経つと霊を持つ)が表れていて面白いと思います。
全国に伝承を広めたのは、この話にも登場する旅の行脚僧などが考えられます。(佐賀民話の会)
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音声 |
16 |
佐城 |
おとわ観音由来
(大歳の火) |
佐賀市
大和町江熊野 |
池田 フイ |
明治41年
(1908) |
(-) |
(あらすじ)
むかし金持ちの屋敷で女中をしていたおとわさんは、とても倹約家で働き者だった。その家はずっと火種を絶やしたことが無かったが、おとわさんが火の番をすることになった大晦日、誰かがこっそり火を消してしまった。おとわさんは屋敷の前を通った葬列から火種をもらおうとした。会葬者はそのかわりに棺桶を一晩屋敷に置かせてくれと言い、おとわさんは、火種が欲しかったので、棺桶を自分の部屋に置かせた。
夜が明けて棺桶の蓋を開けると黄金がいっぱい入っていた。おとわさんは主人に小さな御堂を建ててもらい、その御堂に観音様を祀った。それが清水のおとわ観音である。
(コメント)
この話は、既に掲載済みの「貧乏神と福の神(大歳の客)」(藤津地区)と同じように、大晦日の晩に起こる不思議なできごとを主題とする話の一つです。この話では、最後に清水の観音さん(小城市)の由来に結びついていますが、このように伝説化して伝承されてきているものも珍しくありません。(佐賀民話の会)
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音声 |
17 |
杵西 |
おむすびころりんこん |
伊万里市立花町渚 |
松尾 テイ |
大正5年
(1916) |
肥前伊万里の昔話と伝説 |
(あらすじ)
ある日、お爺さんは山に薪を採りに行き、お握りを食べようとしたらコロコロと転がって穴の中に落ちてしまいました。そこで、お爺さんがその穴の中に入ってみると、穴の中にお地蔵様が祀られ、鼠がいました。
鼠と一緒に楽しんだお爺さんは、帰る時に鼠からお土産をもらいました。
その話を聞いた隣のお爺さんも山に行きましたが、持って帰った土産からは蛇や百足が出てきて、蛇に噛まれた隣のお爺さんはとうとう死んでしまいました。
(コメント)
良いお爺さんと悪いお爺さんの葛藤を主題とする「隣の爺型」といわれる話型群に属する話で、この話型群の中では代表的な話です。全国で伝承されており、佐賀県内でも伝承度が高い話のひとつとなっています。(佐賀民話の会)
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音声 |
18 |
三神 |
貝の恩返し(貝姫) |
鳥栖市永吉町 |
久保 励 |
明治41年
(1908) |
とすの口承文芸 |
(あらすじ)
広い田畑をもつ長者には、貝姫という娘がいた。貝姫は心優しく、村の者が持ってくる貝を買っては川に放してやっていた。日照り続きのある夏、大蛇の化身の男が現れ、貝姫を嫁にくれるなら雨を降らせてやるといった。長者はいったん承知したが、実際に男が貝姫をもらいにくると、娘を家の奥にかくまい、渡さないようにした。
男は怒って大蛇の本性を現わし、貝姫の隠れた家に巻きついて締め上げた。しかししばらくして急にあたりが静かになり、貝姫が外を見ると、体中に貝をくっつけた大蛇が死んでいた。以前貝姫が逃がしてやった貝たちが、大蛇を退治してくれたのだった。
(コメント)
この話は、「動物報恩譚」という話型群に属する話ですが、その中でも、田の水を入れてくれたら娘をやろうという父親の約束が必ず出てくることから、「水乞い型」と呼ばれています。通常は、娘を助ける動物は蟹や蛙とされていますが、この話では貝となっており、珍しい話です。(佐賀民話の会)
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19 |
佐城 |
蛙の親不孝 |
小城市牛津町谷 |
池田 トメ |
明治43年
(1910) |
牛津の民話 |
(あらすじ)
親蛙の言うことの反対ばかりしていた子蛙がいました。
それで、親蛙は自分が死んだら川に埋めるよう子蛙に言いました。ところが、今度だけは親孝行しようと子蛙は親蛙を川に埋めました。
それで、雨が降ったら「お母さんが流れてしまう」と子蛙がギャギャ鳴くようになりました。
(コメント)
佐賀県内では最も伝承度が高い話のひとつで、雨の降る前に雨蛙がなく由来としてよく語られています。この話が基になり、親の言うことを聞かない子供は「親不孝蛙(ビッキ)のごたっ」と言われていました。なお、有明海沿岸部では、潮の満ちてくる前に鳥が高く舞い上がって鳴く由来としても語られています。(佐賀民話の会)
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20 |
藤津 |
河童と相撲
(善右衛門話) |
藤津郡
太良町御手洗 |
荒木 理一 |
明治31年
(1898) |
太良の民話 |
(あらすじ)
ぜんねんさんが河童の誘いを受けて相撲をとることになった。頭の皿を干せば河童の力が弱くなると聞いて、ぜんねんさんは「相撲を取る時にはお互いに礼をするのだ」と河童に言った。礼をすると頭の皿の水がこぼれ、相撲を取ってみるとやはりぜんねんさんが勝ち、河童は捕えられて馬小屋の柱に縛り付けられた。
おばあさんがその様子を見て笑うと、河童が歯をむきだしておかしな格好をしたので、おばあさんは「こん畜生」といって馬にやる水を河童にかけた。するとその水が頭の皿に溜まり、河童は力を取り戻して、馬小屋の柱を引き倒して逃げた。
(コメント)
藤津郡太良町に住んでいたとされる善右衛門(ゼンネン)という人の話とされています。太良町を中心に伝承されており、この話の他にも数種類あります(藤津地区「善右衛門話(鉄砲・鴨千両)」参照)。なお、話の前半は善右衛門さんが主人公になっていますが、後半は河童が主人公になっており、元々2 つ話が一緒になったのかもしれません。(佐賀民話の会)
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音声 |
21 |
藤津 |
金のなる木 |
嬉野市塩田町美野 |
蒲原 タツエ |
大正5年
(1916) |
蒲原タツエ媼の語る843話 |
(あらすじ)
殿様の前で屁をふって暇を出された腰元は、殿様の子供をはらんで、すでに臨月だったが、親切なお爺さんとお婆さんのお陰で無事に男の子を出産した。
男の子は、献上物を持って殿様に会いに行き、献上物を開けることができるのは一度も屁をふった事のない者だけだと言うと、殿様はそんな者はいないと答えた。
そこで、母親のことを話すと、殿様は母親を呼び寄せ再び腰元として迎入れた。
(コメント)
話の最後に、「金の成る木がないのと同じように屁をひる嫁さんもいない」という諺が付いているのが特徴です。他県でも聞かれる話ですが、佐賀県内での採集例は少ないようです。(佐賀民話の会)
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音声 |
22 |
杵西 |
河童の手と骨接ぎの薬 (河童の手切れ) |
伊万里市
立花町 渚 |
松尾テイ |
大正5年
(1916) |
肥前伊万里の昔話と伝説 |
(あらすじ)
医者の家で、便所の中から誰かが手を伸ばしてお嫁さんのお尻に触るといういたずらが続いたので、お嫁さんは脇差をもって便所に入り、出てきた手を脇差で切り落とした。その手には水かきがあったため、河童の手だろうということになった。 その晩、河童が医者の家に来て、手を返してくれと頼んだ。お医者さんは怒って追い返したが、河童は六日続けて頼みに来て、返してくれたら河童の骨接ぎ法を教えるという。お医者さんは、骨接ぎの方法と薬の調合法を教えてもらうのと引換えに河童に手を返してやり、その後は「河童の骨接ぎ法」の医者として大いに繁盛した。
(コメント)
河童の話は県内でもよく聞くことができ、本シリーズの「河童と相撲(善右衛門話)」(藤津地区)のように相撲をとる話だけでなく、この話のように骨接ぎの秘伝である膏薬等の作り方を教えてやったとする話もよく聞かれます。佐賀県は、鳥栖の売薬商が膏薬も売っていたことから、こうした人達が話の伝播に関わっていたことも考えられます。
なお、佐賀では、河童のことを「カワッソ」とか「カワソウ」とも言います。 (佐賀民話の会)
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音声 |
23 |
杵西 |
川の神様の贈り物
(涎たれ小僧) |
伊万里市
立花町 渚 |
松尾テイ |
大正5年 (1916) |
肥前伊万里の昔話と伝説 |
(あらすじ)
貧乏な花売りのおじいさんが、正月用の松竹梅を、最初に川の神様にお供えをしようと川に流した。川の神様は、お供えのお礼におじいさんを御殿に招待してもてなし、帰り際に何でも望みをかなえてくれるという汚い涎たれ小僧をもらった。 御殿にいたのはほんの一時のはずだったが、家に帰ってみると大晦日になっており、おじいさんは涎たれ小僧に頼んで正月用の餅や米を出してもらった。その後も金や立派な家を出してもらい、おじいさんはずいぶん羽振りが良くなった。 しかし後には、どこへ行くにも汚い涎たれ小僧がついてくるのが疎ましくなり、とうとうおじいさんは涎たれ小僧を追い払ってしまった。するとそれからまただんだん貧乏になった。
(コメント)
全国的には「竜宮童子」と呼ばれる話型群に属する話で、この話型群の中では、県内ではめったに聞かれない話です。川の神様がくれたものは、鼻たれ小僧とする話が多いようですが、涎たれ小僧とする話は、他に見当たりません。
この話の背景には、本シリーズの「ぐうずのものいい」(三神地区)等と同じように、正月に訪れる来訪神信仰があると言われています。 (佐賀民話の会)
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音声 |
24 |
東松浦 |
勘右衛門話
「一番高っか山」 |
唐津市厳木町広瀬 |
松尾 秀雄 |
明治35年
(1902) |
厳木の民話 |
(あらすじ)
勘右衛門さんが唐津にはとても高い山があると言ったので、他の者は、鏡山が高いかな?作礼山も天山ももっと高いぞ!とそれぞれに言った。
そうしたら、勘右衛門さんは、屈んでいる鏡山が立ち上がれば一番高いと言った。
(コメント)
勘右衛門(かんね)話は、唐津市を中心に佐賀県内では一大伝承圏を形成している話で、この話はその中でも代表的な話のひとつです。通例は富士山と比べる話ですが、この話は佐賀県内で高いと言われている他の山と比べる話となっています。(佐賀民話の会)
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音声 |
25 |
東松浦 |
勘右衛門話「大飯食らいの嫁さん」 |
唐津市浜玉町大江 |
鳥巣 田鶴子 |
不詳 |
庠舎 第34号 |
(あらすじ)
ご飯を食べないというお嫁さんをもらったら本当にご飯を食べないので、勘右衛門さんは喜んでいました。ところが、あまりに食べないので、こっそりと床の下からお嫁さんの様子を見ていたら、ご飯を沢山炊いて、魚の唐揚げを作って、それを夢中で食べました。それを見た勘右衛門さんは驚いて、こんなにご飯を食べるならば追い出さなければと言ってお嫁さんを追い出しました。
(コメント)
勘右衛門(かんね)話は、昔、唐津の裏町に住んでいたとされる人物に結び付いた話で、吉四六(大分県)、彦市(熊本県)の話と同類の笑話です。この話は、「食わず女房」的なモティーフを取り込み、通常の勘右衛門話とは一味違う話となっています。(佐賀民話の会)
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音声 |
26 |
東松浦 |
勘右衛門話
「息子のほら比べ」 |
唐津市厳木町厳木 |
松田 トキワ |
明治42年
(1909) |
厳木の民話 |
(あらすじ)
博多の勘右衛門が唐津の勘右衛門と知恵比べのために唐津に向かう途中、玉島川の岸で唐津の勘右衛門の子供に出会った。
小さいしょうけで鯨の子をすくっていた子供は、母親はかいじゃくしで鯨をすくうし、破れた雲を縫いに行き、父親の勘右衛門は崩れようとしている鏡山を線香3本で支えに行ったと答えた。
その話を聞いて、とても勝てそうにないと博多の勘右衛門は引き返した。
(コメント)
勘右衛門話「息子のほら比べ」(採話地:唐津市厳木町広瀬)と同じく勘右衛門(かんね)話の代表的な話です。勘右衛門話の中はこの話のような頓知話の他、ずるがしこい話や時には愚か者の話も含まれていて、多岐にわたっているのがその特徴です。(佐賀民話の会)
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音声 |
27 |
藤津 |
杵島山の松の精と
三弦弾きの娘 |
嬉野市塩田町美野 |
蒲原 タツエ |
大正5年
(1916) |
蒲原タツエ媼の語る843話 |
(あらすじ)
歌垣山で、笛を吹く青年と三弦を弾く娘が出会い、恋に落ちた。二人は毎晩山に登り、三谷城の松の木の根元で、いつも二人で過ごした。翌年の夏、大洪水で馬田の橋が流れてしまうと、村人たちは三谷城の松を切って橋をかけることにした。青年と娘は、あいかわらず三谷城の松の根元で逢瀬を重ねていたが、ある夜、青年はとても悲しげな様子で、自分は松の木の精でまもなく切り倒されるのだと告白した。
切り倒された松の木は、運ぼうとしても少しも動かなかった。しかし三弦弾きの娘が手をかけるとサラサラと山を下り、馬田の川の立派な橋になった。
(コメント)
この話は、舞台が杵島山麓の歌垣山であること、歌垣を思わせる男女だけの盆踊りで出会うことなどの点から、杵島山麓が日本三大歌垣の舞台の一つであることを念頭において伝承されてきた話だろうと思います。
さらに、切り倒された木が愛する者の手によってしか動かないとする場面は、「木霊婿入」という異類婚姻譚に特徴的な要素であり、同じ杵島山麓周辺にある平家とのかかわりを説く話や近くにある和泉式部伝説ゆかりの寺の存在などを考えあわせると、伝承の背景には、杵島山麓と京都との繋がりも見え隠れしているような気がします。(佐賀民話の会)
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28 |
三神 |
絹巻の観音様由来
(観音様と継子) |
神埼市
脊振町 鳥羽院下 |
実本 十郎 |
明治25年
(1892) |
(-) |
(あらすじ)
観音様を深く信仰している母から生まれた娘が、母の死後後妻に入った継母にいじめられ、家を追い出された。巻板を背負って山の中をさまよっていた娘は、小さな家をみつけ、そこにいた慈悲深い女の人に機織りの技を教えてもらった。 数年たって娘が家に帰る時、女の人は、自分は娘の母が信仰していた観音菩薩だと告げた。帰ってきた娘の話を聞いた父親が、山の中の家に行ってみると、小さな観音堂があり、娘の織った反物が巻板の上に積み上げてあった。 後に娘は観音様を慕ってまた山の中の家に戻った。その娘が絹巻の観音様である。
(コメント)
継子話の多い佐賀では、話の中に継子話的要素が付け加えられることがよくあり、この話もその一つと考えられます。
観音様が祀られているという「絹巻の里」は脊振山の山間部にあり、近くには、後鳥羽上皇が落ち延びてきたとされる「鳥羽院」という集落もあります。 (佐賀民話の会)
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29 |
三神 |
ぐうずのものいい |
三養基
郡基山町園部 |
野田 高徳 |
明治42年
(1909) |
基山の民話 |
(あらすじ)
暮れのある日、お爺さんが山で木を切っている時に亀を捕まえました。お爺さんが「餅搗き杵切ったれどお、何で年ゃあとうろうかい」と言うとその亀は「粟んでくっさん。米んでくっさん」と返事をしました。
不思議に思ったお爺さんは、大晦日の夜にこの亀を庄屋さんのところに連れて行きました。驚いた庄屋さんは物を言う亀を是非にと欲しがり、お爺さんが欲しいだけの餅米、粟、お金をやろうと約束しました。お爺さんは亀のお陰で、お婆さんとよい新年を迎えました。
(コメント)
「花咲爺さん」のような「到富譚」と呼ばれる話型群のひとつです。佐賀県では、犬の代わりに「ぐうず」といわれる川や沼に住む亀の一種が登場します。大晦日の晩の話ということと、「今年は何で歳(とし)ぁあとろろ」と言うと「お米でとんさい」(佐賀平野部)とぐうずが繰り返す部分がこの話の特徴となっています。(佐賀民話の会)
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音声 |
30 |
杵西 |
黒髪山大蛇退治と
地名起源 |
西松浦郡
有田町稗古場 |
古賀 政一郎 |
大正元年
(1912) |
有田町史 |
(あらすじ)
黒髪山の麓の「評定場」(現在は有田ダムの湖底)は、むかし鎮西八郎為朝が大蛇退治の評定をしたところである。評定の結果、万寿姫が人身御供になり、大蛇を誘き出した。大蛇は天童岩に七巻半巻きつき、それを為朝が矢で射落とした。落ちていくところに盲人のお坊さんが通りかかり、足に引っ掛かった大蛇を、それと知らずに杖で突き殺した。
死んだ蛇は、頭だけを切って運んだ。それを埋めたところを蛇頭という。頭はとても重かったため、運んだ牛の爪跡が今のダムのところに残っている。岩に当たってはね返った為朝の矢が飛んでいったところは「戸矢」という地名になっている。
(コメント)
佐賀県の代表的な伝説の一つで、県西部を中心に地名伝説等として幅広く伝承圏されています。この話は武雄市と有田町にまたがる黒髪山を舞台とした話ですが、大蛇を退治した鎮西八郎為朝の逸話は、県内いたるところで伝承が確認されています。なお、この話の伝搬には、話の中にも登場する座頭がかかわったのではないかと考えられています。(佐賀民話の会)
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音声 |
31 |
佐城 |
源太塚由来
(源太と万吾) |
多久市
南多久町泉町 |
横尾 勇 |
明治41年
(1908) |
多久市史 |
(あらすじ)
むかし多久に、村人に悪さをする源太という力持ちの男がいた。ある時源太は、谷下に住む荒谷万吾に力比べを挑もうとして、万吾の家を訪ねた。しかし留守番をしていた七十歳くらいのおばあさんのあまりの怪力ぶりに恐れをなして逃げ帰った。
ほどなく帰ってきた万吾が、いきさつを聞いて源太を追いかけ、いまの源太塚という所で追いついて、逆に源太に力比べを挑んだ。源太は恐ろしくなってあやまった。そして万吾から「それだけの力があるのだから人のためになることをしろ」と諭され、その後は村人のために尽くすようになった。
(コメント)
万吾の家で、源太が力任せに曲げた鉄の棒を、そこの婆さんがたちまち元に戻す場面は、笑話の「仁王と賀王」のモティーフが使われているようです。
源太塚は、今は地名のみしか残っておらず何もない所のようですが、牟田部古墳群がすぐ近くにあることなどを考えると、以前は遺跡のようなものが何かあり、そのことを不思議に思った誰かがこの話と結びつけたのかもしれません。伝説の発生過程を考える上で興味深い話です。(佐賀民話の会)
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音声 |
32 |
佐城 |
弘法大師とえつの魚 |
佐賀市諸富町為重 |
糸山 定雄 |
明治39年
(1906) |
諸富の民話 |
(あらすじ)
雨の降る夜、人の良い漁師のお陰で弘法大師は無事に筑後川を渡ることができた。葦の葉をお礼に渡し、筑後川に流したら魚になって帰って来ると言い残した。
漁師は、言われるままに葦の葉を流したところ、翌年葦の葉のような魚(エツ)が沢山上がってきた。
(コメント)
「えつ」は、筑後川の下流域にしか生息していないとされる笹の葉のような形をした魚で、この魚の由来を説く話として筑後川の下流域一帯で語られています。笹の葉を流したのは弘法大師とするほか、徐福とする話もあります。(佐賀民話の会)
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音声 |
33 |
佐城 |
こんにゃく問答 |
多久市
北多久町小侍 |
飯盛 康晴 |
明治43年
(1910) |
佐賀の民話 |
(あらすじ)
善兵衛さんにこんにゃくの作り方を教えた和尚さんの所に江戸から和尚さんがやって来た。
問答に負けるとお寺から出て行かなければならなくなるという話を聞いた善兵衛さんは、和尚さんの代わりに問答をすることにした。
格好だけは和尚さんになった善兵衛さんだが、問答が全くかみ合わない。江戸の和尚さんは、善兵衛さんの答えを善意に解釈して善兵衛さん降参し、お寺から退散したので和尚さんはお寺から出て行かなくてもよくなった。
(コメント)
庶民にとっては小難しいと思われていた禅問答を笑いの対象とした話です。笑話の中でも人気があったようで、佐賀県内の他地区でも伝承が確認されています。(佐賀民話の会)
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音声 |
34 |
藤津 |
材木担ぎ
(久惣十さん話) |
嬉野市嬉野町下野 |
古川 悦二郎 |
明治27年
(1894) |
嬉野の民話 |
(あらすじ)
久惣十さんは吉田(嬉野市嬉野町)にいた、たいへんな力持ちという。
鹿島の赤門の材木を運ぶ時に、吉田と能古見(鹿島市)からそれぞれ20人出すことになったが、当日吉田からは久惣十ひとりが現れたので、能古見の衆は人数が足りないと責めた。
しかし実際に担いでみると、後ろを担いだ久惣十が、前を担ぐ能古見の衆20人を「早く行け」とせっつく。次に前を担いだ久惣十は、「早く来い」と言って20人を引っ張った。
音を上げた能古見の衆が「もうお前とは担げない」と言うと、久惣十は「それなら自分だけで」と、普通なら40人で運ぶ大木をひとりで担いでいった。
(コメント)
嬉野市嬉野町吉田に住んでいたとされる力持ちの話で、嬉野町吉田を中心に伝承されています。久惣十さんの話はこの話の他にも数種類ありますが、勘右衛門話(カンネ話)のように、おどけ者的な話というより、むしろ地元の力持ちを自慢する内容の話となっています。(佐賀民話の会)
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音声 |
35 |
東松浦 |
砂糖菓子は阿弥陀様
(和尚と小僧) |
唐津市
肥前町 京泊 |
久保 常吉 |
明治20年
(1887) |
(-) |
(あらすじ)
山寺に、和尚さんと知恵者の小僧さんがいた。和尚さんは法事でもらう砂糖菓子を隠して自分一人でこっそり食べていた。不満に思った小僧さんは、ある時和尚の留守に菓子を取り出してたらふく食べ、砂糖を本堂の阿弥陀様の口の端にくっつけておいた。 和尚さんが帰ってきて小僧さんを追及すると、小僧さんは阿弥陀様が食べたのだと言い逃れた。確かに阿弥陀様の口の端には砂糖が付いていたが、和尚さんが阿弥陀様を棒で叩くと「クワーン」と鳴ったので、和尚さんは小僧さんに「ほらみろ、阿弥陀様は『食わん』と言っている」と言った。 すると小僧さんは、そんな手ぬるいことでは阿弥陀様は白状しないと言って、大釜に湯を沸かして阿弥陀様を投げ込んだ。湯が沸騰して「クッタクッタ…」と言ったので、小僧さんは、やっぱり阿弥陀様が食ったのだ、湯責めしたら白状した、と言い張った。
(コメント)
「和尚と小僧」という話型群に属する笑話であり、県内のほとんどの地域で聞くことができます。この話の他にも、「小僧改名」や「和尚おかわり」など話の種類も多数あり、県民に人気のあった話の一つになっています。一休さんの話として話されることも多いようです。 (佐賀民話の会) |
音声 |
36 |
東松浦 |
佐用姫と鏡山の大蛇
(蛇婿入り) |
唐津市
高島 |
野崎 力蔵 |
明治45年
(1912) |
(-) |
(あらすじ)
長者の娘佐用姫の所に毎晩忍んでくる若い男がいた。それで、佐用姫の母が女中さんに、男が佐用姫を誘い出したら後をつけろと命じた。それでその女中さんは、佐用姫の着物の裾に、糸を通した針を縫いつけておき、佐用姫が男に連れられて出て行くと、だいぶ離れて後をついていった。 そうしたら、鏡山の頂上についた。一晩明けると佐用姫がそこに寝ていて、蛇がそこからいくらか離れて死んでいた。その蛇は鏡山の堤の主で、佐用姫の器量がいいので毎晩通っていたということだ。鏡山神社の本殿の裏には、蛇の社が祀ってあるそうだ。
(コメント)
奈良時代に編纂された「肥前風土記」に記された話と、ほとんど同じ内容であることに驚かされます。話の内容は、本シリーズで取り上げている「松浦佐用姫伝説」(東松地区)の後日譚という設定であり、鏡山(唐津市)にある佐用姫神社の由来話として伝説化しています。
県内では、同じストーリーの話が、「3月3日の節句には女の子は桃酒を飲まなければならない」とする習俗の由来を解く昔話として、各地で伝承されています。 (佐賀民話の会) |
音声 |
37 |
佐城 |
猿と娘と猫の皮
(猿婿入り) |
佐賀市
大和町 仲 |
山本 清吾 |
明治36年
(1903) |
(-) |
(あらすじ)
貧しい農家の父親が、猿と約束をして、娘一人と引換えに、旱魃の田に水を入れてもらった。末の娘が猿の嫁に行くことになり、水瓶を一つもらって、迎えに来た猿に背負わせて家を出た。途中で娘は藤の花を猿にねだり、猿は藤の枝を取ってやろうとしたが、誤って川に落ちてしまい、背負っていた水瓶に水が入って溺れ死んだ。 猿から逃れた娘は、山の中の家で一夜の宿を乞うた。その家にはお婆さんと鬼子の兄弟が住んでいたが、お婆さんにかくまってもらい、猫の皮を被って化けることで、娘はまた難を逃れ、無事に家に帰ることができた。
(コメント)
この話は、猿が娘に殺される前半と娘が鬼子から逃れる後半の部分に分かれます。前半の部分は、「異類婚姻譚」の中でも「猿婿入り」と呼ばれ、通常は、これだけで一つの話として伝承されています。猿が娘に騙されて殺される設定が可哀想だとする心情とも呼応して、全国的に人気のある話で、県内でも10話程採集されています。
猿を騙す場面は、他の話ではほとんどが櫛を川や堤に落とし取りに行かせるものですが、この話では藤の花が綺麗だと言って取りに行かせています。田植え前の山里の風景を彷彿とさせ、佐賀らしい話だと思います。
なお、後半まで伴っている話は全国的にも珍しく、「猿婿入り」の中でも特に「姥皮型」と呼ばれています。 (佐賀民話の会)
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音声 |
38 |
佐城 |
猿どんと蟹どん |
小城市
三日月町江利 |
黒川 ムラ |
明治30年
(1897) |
三日月の民話 |
(あらすじ)
猿と蟹が協力して餅をつきましたが、猿は餅を全部持って柿の木の上で食べて、蟹に餅を一つもくれませんでした。
ところが、柿の枝が折れ、餅と猿が一緒に落ちてきたので蟹は残りの餅を穴の中に持って行きました。今度は猿が餅をくれるように蟹に言いましたが、蟹はくれませんでした。
それで、猿は蟹の上に自分の糞をかけたので、蟹は猿の尻を鋏で挟みました。
これで、猿の尻は真っ赤かになりました。
(コメント)
猿蟹合戦の原型と考えられるもので、農業の盛んな佐賀平野部とその周辺部では、特に伝承度が高い話です。この話の特徴は、最初に猿と蟹が餅搗きをする部分と最後に猿の尻の赤い由来の部分が付いていることです。(佐賀民話の会) |
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39 |
佐城 |
猿の生き肝 |
佐賀市長瀬町 |
納富 信子 |
大正14年
(1925) |
さが昔話 |
(あらすじ)
竜宮の乙姫が病気で、治すには猿の生き肝が必要ということになった。亀が陸に行って、猿を言葉巧みにだまし、竜宮城へと連れてきた。猿は、乙姫付きの女の人からちやほやされ、肝を太らせるためうまいものを腹いっぱい食べさせられた。
タコとクラゲは、何も知らず喜んでいる猿が気の毒になり、生き肝を取る計画を猿に教えてしまった。猿は驚いて早く逃げなければと思い、「自分の肝は裏の柿の木にかけてきた」と亀をだまして陸まで連れて行かせた。陸に着くと猿は、「肝が木にかかってるなんてことがあるものか」と言って、亀にアダンの実をぶつけて逃げた。
(コメント)
全国的にも有名な話で、「クラゲ骨なし」とも呼ばれています。猿と亀が出てくるのは全国共通で、最後は動物(亀、クラゲ、タコ等)の形態の由来に結びつきます。
どの話も生き肝をとられるのは猿とされています。猿は神の眷属とされることもあり、猿の肝は神秘的な力があると信じられていたことなどが伝承の背景にあると考えられます。
うまい話には裏があるという戒めの意味も込められているかもしれません。(佐賀民話の会)
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音声 |
40 |
杵西 |
猿の尻尾の由来 |
伊万里市立花町渚 |
松尾 テイ |
大正5年
(1916) |
肥前伊万里の昔話と伝説 |
(あらすじ)
ある日の夜、博労と虎狼は、牛を盗ろうと納屋の陰に隠れていましたが、逃げ出した虎狼を牛だと思った博労は一生懸命しがみつきました。
夜が明けて、虎狼であることに気づいた博労はふるい落とされ、松の木の根っこの穴に落ちてしまいました。
博労が落ちた穴に猿が尻尾を下ろしたところ、博労は猿の尻尾をつかんだので猿の尻尾はちぎれ、あまりに力んでしまったので顔も赤くなってしまいました。
(コメント)
「古屋の漏」の話型名で、他県でも語られている話です。特徴は、「古屋の漏り(古い家の雨漏り)は虎狼より怖い」と家の人が話す部分と話の最後に付いている猿の尻尾が短くなる部分です。(佐賀民話の会)
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音声 |
41 |
佐城 |
産婆さんと野狐
(野狐の難産) |
佐賀市
久保田町 町西 |
原田 豊志 |
不詳 |
(-) |
(あらすじ)
皆が十円札を出し合って頼母子講をしていたら、風が吹いて札が二枚なくなった。 その日の夜中、近くの産婆さんの家に、男が「家内が産気づいた」と迎えに来た。産婆さんはりっぱな家で奥方のお産を済ませると、お礼としてお酒一升と十円札二枚を受取り、上等な布団で寝かせてもらった。 夜が明けて目覚めると、産婆さんの体には布団ではなく萱草がたくさんかかっていた。しかしお酒と二十円は本物で、そこにあった。産婆さんは「野狐に騙された」と悟り、もらった二十円を頼母子講で無くなった金の埋め合わせにした。
(コメント)
佐賀県の代表的な話です。この話には付いていませんが、通常は「産婆さんは一人で呼びに行ってはならない」などの習俗由来が付いているものが多いようです。
また、もらったお金は柴の葉だったとしているものが多いようですが、この話は本物だったとしています。単なる狐から騙された話だけで終わろうとしていない所が面白いと思います。
なお、県内では、狐のことをヤコと言い、この話に限らず、以前は、ヤコに化かされた話はいたる所で話されていました。(佐賀民話の会)
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音声 |
42 |
三神 |
椎の実拾い |
三養基郡みやき町
東津 |
石井 良一 |
明治35年
(1902) |
三根の民話 |
(あらすじ)
椎の実を拾いに山に入ったお爺さんが観音堂に泊まったところ、観音様から鬼が出たら羽ばたきをして鶏の鳴き真似をすることを教わりました。
鬼が出てきたので目が覚めたお爺さんが鶏の鳴き真似をすると鬼たちは持っていたものを置いて逃げ出したので、お爺さんは鬼の持ち物をもらって帰りました。
隣の欲張りなお婆さんはお爺さんの真似をしましたが、人間であることがばれてしまい、鬼たちから散々な目にあわされてしまいました。
(コメント)
椎の実拾いの話は、佐賀県の昔話の中によく登場します。継子話として語られることが多いようですが、この話のように爺と婆の話になっているものもみられます。(佐賀民話の会)
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43 |
杵西 |
地獄めぐり |
伊万里市立花町渚 |
松尾 テイ |
大正5年
(1916) |
肥前伊万里の昔話と伝説 |
(あらすじ)
岩魚と河童が極楽を見物しながら歩いていると、きくらげの干物がうず高く積んであった。「何に使うのか」と話していると、青鬼が小屋の陰から出てきて「これはきくらげじゃない。自分が善行はせず、良いことばかりを聞いてきた人間の耳だけが極楽に来たのだ」と言う。
次に数の子がたくさん置いてあるように見えた小屋では、やはり青鬼が「数の子ではなく良いことを言うばかりで実際には何も行わなかった人間の舌だ」と言った。たにしの干物のように見えたものは「良いことを見るだけだった人間の目玉だ」と教えられ、驚いた岩魚と河童は、それからは見物もろくにせず歩いて行った。
(コメント)
県内はもちろん全国的にも珍しい話です。笑い話は通常、単一のモティーフ(構成話)だけの場合が多いのですが、この話は、複数のモティーフで構成されており、そのため比較的長い話となっています。また、教訓的要素も加味されており、通常の笑い話とは趣を異にしています。(佐賀民話の会)
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44 |
東松浦 |
借金とりの香典
(勘右衛門話) |
唐津市浜玉町鳥巣 |
吉原 ヤス |
大正10年
(1921) |
庠舎第34号 |
(あらすじ)
借金ばかりしていたかんねさんは、取立てのある大晦日、自分は死んだことにしろと奥さんに言って、仏壇まで作って二階に隠れた。借金の取立てに来た味噌屋や醤油屋は、奥さんからかんねさんが死んだと聞かされ、びっくりして香典を置いていった。
他の人もその調子で香典をくれようとするので、あまりに気の毒になった奥さんが香典を返そうとした。するとかんねさんが慌てて二階の階段から「とっとけ、とっとけ」と言って体を乗り出し、乗り出しすぎて一階に転げ落ちた。それを見た借金取りたちはかんねの幽霊が出たと香典を放り投げて逃げていき、結局かんねさんは大儲けした。
(コメント)
勘右衛門話は、他にもいくつか取り上げていますが、その中でもよく聞かれる話の一つです。
この話で描かれている勘右衛門は、単に知恵があるというだけでなく、誤って2階から落ちるという愚かな面や、幽霊と間違えられて香典を得るという運の良さも併せて持っている人物として描かれています。こうした特徴は、勘右衛門話のような広範囲の伝承圏を持つ話型群によく見られるものです。(佐賀民話の会)
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音声 |
45 |
佐城 |
十二支由来 |
佐賀市諸富町
諸富津 |
松崎 安一 |
明治28年
(1895) |
諸富の民話 |
(あらすじ)
神様が世界中の動物を集めて12月12日に十二支を決めることにしました。
他の動物への連絡を頼まれた猫はそのことをみんなに伝え、集まった動物が十二支になりました。
ところが、犬には13日だと嘘をついたので猫は一番に行けず、後から行こうとしましたが、騙されてやってきた犬は腹を立て、その後は犬と猫の仲が悪くなりました。
(コメント)
佐賀県内では伝承度が高い話のひとつです。十二支の由来としては、この話の他に、猫が干支に入っていない由来として語られているものもあります。(佐賀民話の会)
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音声 |
46 |
藤津 |
正月のウラジロ由来
(初夢の話) |
嬉野市
塩田町 美野 |
蒲原 タツエ |
大正5年
(1916) |
蒲原タツエ媼の語る843話 |
(あらすじ)
初夢の話を聞いてもまったく答えない男の子に父親が怒って、その子を箱に入れて海に流してしまった。その子は鬼が島に流れ着き、鬼たちに食べられそうになったが、「もし自分を食べるのなら、その前に一度鬼が島を見物させてくれ」と言った。するとお人よしの鬼たちは、その子をあちこち見物に連れて行った。 見物して歩いている最中に、男の子は、「千里」と呼びかけると千里飛んでいくという「千里棒」を使って逃げ出した。鬼たちはもう一本の二千里棒で追いかけたが、その子は、タラの木の下にびっしり茂ったウラジロの茂みの中へ逃げ込んだ。鬼たちはどうしても探し出すことができず、その子は無事に家に帰ることができた。
(コメント)
全国的には「夢見小僧」と呼ばれる話型群に属する話で、この話には出てきませんが、通常、「初夢は人に話してはならない。話すと実現しない」とする諺の由来として話されることが多いようです。
ただ、この話のように、正月飾りのウラジロやタラの葉の由来と結びついているものはほとんど見当たりません。 (佐賀民話の会)
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音声 |
47 |
佐城 |
徐福伝説 |
佐賀市諸富町
東寺井 |
江口 又一 |
明治18年
(1885) |
諸富の民話 |
(あらすじ)
時化にあった徐福は、アミのおかげで助かり、搦(佐賀市諸富町搦)に無事に着きました。
このため、アミがいる早津江(佐賀市川副町早津江)の者はアミを取ってよいし、搦の者だけがエツを取ってよいと徐福が決めました。
そして、上陸した徐福は井戸を掘りましたが、柿渋の臭いがするので金立山(佐賀市金立町にある山)に行きました。
その後、徐福は寺井の町づくりを指示し、町並みを作ったそうです。
(コメント)
徐福伝説は他県にもありますが、佐賀県では、徐福が有明海の沿岸部(佐賀市諸富町)に上陸し、脊振山麓(佐賀市金立町)で不老不死の薬草を発見したとされる話として佐賀市を中心に広く伝承されています。50年に1回行われる金立神社の御幸行事はこの道のりを再現しています。(佐賀民話の会)
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音声 |
48 |
藤津 |
水神さんの手紙 |
嬉野市塩田町美野 |
蒲原 タツエ |
大正5年
(1916) |
蒲原タツエ媼の語る843話 |
(あらすじ)
昔、旅の男が橋を渡ろうとしたら、女の人から声を掛けられ、妹に手紙を渡してくれるように頼まれました。途中、お坊さんから声を掛けられたので、頼まれた手紙のことを話し、お坊さんに手紙を見せました。
すると、その手紙には、男を食べてしまえと書いてあったので、お金を沢山渡してほしいという内容に手紙を書き換えました。
男が待っていた娘に手紙を渡すと、橋の上には大判小判を一杯入った包みがありました。
(コメント)
「水の神の文使い」といわれる話型に属する話ですが、東日本を中心に伝承されており西日本での伝承は少ないとされています。県内での採集例もこの1話だけかと思われます。(佐賀民話の会)
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49 |
杵西 |
末っ子の焚き物とり
(三人兄弟の修行) |
伊万里市立花町渚 |
松尾 テイ |
大正5年
(1916) |
肥前伊万里の昔話と伝説 |
(あらすじ)
男ばかりの三兄弟が、父親から何でもよいから一年間修行してこいと言われて旅に出た。長兄は剣術を、次兄は馬術の修行をした。末っ子は、山の中で山姥に会い、「仕事着が擦り切れるまで」という約束で、焚物とり(薪集め)の手伝いをすることになった。一年近く働いて約束を果たした末っ子に、山姥は願いがかなう皮の切れ端を与えた。
家に帰り、焚物とりの修行をしたという末っ子を兄たちは馬鹿にしたが、焚物を集める様子を見て感心した父親は、「床の間の宝物をとれたらお前に財産を譲る」といった。末っ子は知恵を働かせて宝物を手に入れ、約束どおりその家の跡取りになった。
(コメント)
県内では珍しい話です。「3人兄弟譚」という話型群の中で、さらに、魔法の道具と知恵により富を得るとする「盗人型」という話型に属する話です。
この話型の特徴は、3人兄弟のうち富を得るのは、ほとんどが末っ子であるということ、また、主人公が修行により手に入れる技は盗人の技であるとされていることです。また、この話に登場する老婆は山姥と思われますが、人に害をもたらす者としてではなく、主人公に魔法の道具を与える等、富を授ける者として描かれています。(佐賀民話の会)
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音声 |
50 |
東松浦 |
雀と燕と蛇と蛙
(お釈迦様の話) |
唐津市
呼子町 加部島 |
向六太郎・
杉谷太郎 |
明治38年
(1905)・
明治31年
(1898) |
(-) |
(あらすじ)
お釈迦様が亡くなる時に、動物の食べ物を決めることになった。 急いで汚れたままの恰好で行った雀はお釈迦様の臨終に間に合い、米を食べてよいと言われた。きれいに化粧をしていった燕は虫けらを食べるよう遺言された。蛇は、帰ってくる蛙と行き合ったので、自分は何を食べてよいと言われたかと聞いたが、蛙が「お前のように遅く来るのは俺の尻でも食っとけ」とからかったので、今でも蛇は蛙を尻からつかまえて呑むという。ミミズは土を食べろといわれたが、あまりうまくないのでもう少しうまいものを食べたいと訴えたら、お釈迦様の弟子が「夏の土用の間に外に来て待っていれば何なりと食べさせる」といった。それでミミズは土用のうちに地面に出てくるようになったが、外は暑いので焼けて死んでしまうという。
(コメント)
動物の形態などの由来を説く「動物由来」というジャンルに属する話で、県内では、本シリーズの「十二支由来」(佐城地区)や「蛙の親不孝」(佐城地区)と同じく、よく聞かれる昔話の一つになっています。
通常は、雀、燕、蛇等の話として、それぞれ独立して話されることが多いようですが、この話では一つの話としてまとめられています。 (佐賀民話の会)
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51 |
東松浦 |
炭焼長者(住友由来) |
唐津市厳木町浪瀬 |
宮原 清一 |
明治37年
(1904) |
厳木の民話 |
(あらすじ)
厳木の山の中の炭焼き友さんのところに、京都から娘さんが訪ねてきて、友さんに一両小判を持たせ、米を買いに行かせた。途中鴨がたくさんいたので、友さんはその鴨をとろうとして、最初は石を投げていたが、そのうち小判まで投げてしまった。
友さんが何も買えずに戻ってきて、娘さんに「もらったものを全部投げてしまった」と言うと、娘さんは「あれは小判だったのに」と言った。「あんなのなら自分の炭焼き小屋にいくらでもある」と言って、友さんが炭焼き窯の所を掘ってみせると、小判がザクザク出てきた。友さんはその小判を大阪に運び、大金持ちになった。
(コメント)
この話は、「炭焼長者」として全国的に伝承されている話です。また、同じ筋の話は韓国や中国でも伝承されており、東アジアに伝承圏を持つ古い話の一つと考えられます。
日本においては、炭焼きが八幡信仰と結びついていることから、八幡信仰を背景として、伝承されてきたのではないかとする見方もあります。
この話には、京都から来た嫁さんが重要な役割を担っています。昔話には、このように、女性か富をもたらす話が多いようです。(佐賀民話の会) |
音声 |
52 |
藤津 |
節分の起源 |
嬉野市塩田町美野 |
蒲原 タツエ |
大正5年
(1916) |
蒲原タツエ媼の語る843話 |
(あらすじ)
お爺さんとお婆さん、そしておフクという娘さんが三人で村に住んでいました。
ある時、山から鬼がやって来て、娘さんをお嫁さんにくれるように頼んだので、お嫁にやることにしました。お嫁にやる時豆を持たせ、途中豆を蒔いて行くように言いました。
洗濯に行った時、豆が芽を出しているので、その豆の芽を頼りに村の家まで帰ったそうです。
鬼は、おフクさんを迎えに行きましたが、お爺さんが、鬼は外、と言いながら豆を鬼に投げつけたので鬼は山に帰ったそうです。
(コメント)
異類婚姻譚の中でも異類が人間の聟になる話です。異類としては蛇や猿がほとんどで、この話のように鬼が登場する話は佐賀県内ではほとんど聞かれません。全国的にも珍しく貴重な話のひとつです。(佐賀民話の会)
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53 |
三神 |
脊振山の石楠花 |
神埼郡
吉野ヶ里町小川内 |
武廣 勇 |
明治32年
(1899) |
吉野ヶ里の民話 |
(あらすじ)
彦山で神々の集会に参加した脊振山の弁財天が、彦山の石楠花をこっそり2本引き抜いて持ち帰った。怒った彦山権現が弁財天を追いかけ、赤坂山で追いついた。弁財天はそこで石楠花を1本捨てた。もう1本の石楠花を持って逃げ帰る弁財天を彦山権現がさらに追いかけ、脊振山頂付近の鬼ヶ鼻で追いついて、弁財天が持っていた残り1本の石楠花を叩き落とした。
だから今も脊振山の頂上には石楠花が生えていないが、周りの赤坂山から鬼ヶ鼻にかけてだけは石楠花がある。
(コメント)
この話は、脊振山(吉野ヶ里町旧脊振村)の山頂付近にある石楠花の由来を説明する伝説です。 弁才天さんは、佐賀では「ベンジャサン」と親しみを込めて呼ばれており、この話の他にも、多くの昔話や伝説の主人公になっています。(佐賀民話の会)
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音声 |
54 |
藤津 |
善右衛門話
「鉄砲・鴨千匹」 |
藤津郡太良町糸岐 |
今村 亀一 |
明治28年
(1895) |
太良の民話 |
(あらすじ)
善右衛門さんが、鴨、兎、雉子それに魚まで沢山捕ったし、多良岳を通っていたら猪が千匹いたと話していた。
ところが、千匹もいないと言われたので百匹だったかなと話したら十匹もいないと言われ、三匹だったかなと話したら本当にいたのかと言われた。
それで、猪がパサッと音をさせただけだったかなと答えた。
(コメント)
太良町に住んでいたとされる善右衛門(ぜんねん)という人物の話です(猟師とか大工とか言われています。)。唐津の勘右衛門(かんね)話や神埼の横道孫兵衛(おうどうまごべえ)話と同じように頓知話が多く、主に太良町を中心に伝承されています。(佐賀民話の会)
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55 |
杵西 |
蕎麦の根の赤い由来
(神様の金の鎖) |
伊万里市
二里町 |
西田 岩男 |
大正10年
(1921) |
伊万里の昔話2 |
(あらすじ)
山の中にお母さんと子ども(姉弟)の三人が暮らしていた。お母さんが町に出かけ、幼い姉弟が留守番をしていた時、お母さんに化けた山姥がやってきた。姉弟は事前にお母さんから言い聞かされていたので、用心してはじめのうちは山姥の嘘を見破り追い返していた。しかし最後にはとうとうだまされて戸を開け、弟は山姥に食われてしまった。 姉はどうにか家の外に出て天の神様に祈り、おろしてもらった金の鎖に飛びついて、一生懸命登って行った。それに気付いた山姥も、同じく金の鎖を伝って追いかけたが、鎖が切れてそばの畑に落ちてしまった。山姥の血がそばの根を染めたので、今もそばの根は赤いのである。
(コメント)
この話のように怖いものから逃げる話を「逃鼠譚」といい、この話は、その中でも代表的なものです。県内の山間部では、「山姥の話」としてよく聞かれ、ほとんどの話が蕎麦の根が赤い由来に結びつく話となっています。
なお、この話の最初に出てくる山姥と子供との掛け合い(山姥の声、手を戸口の隙間から出す場面)は、グリム童話の「狼と7匹の子山羊」とほとんど同じであり、驚かされます。 (佐賀民話の会)
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56 |
東松浦 |
鯛の嫁さんと味噌汁
(鯛女房) |
東松浦郡
玄海町 藤平 |
山崎 幸五郎 |
明治35年
(1902) |
佐賀の民話 第2号 |
(あらすじ)
玄海町の値賀崎に、釣り上手な太一という男がいた。太一はある時鯛をつりあげたが、あまりに立派で神々しい鯛だったので、殺してはいけない気がして海に逃がした。 するとその夜中、一人の娘が太一の家に宿を借りに来た。翌朝娘は朝食にとてもおいしい味噌汁を作り、結局太一はその娘と結婚した。 太一は味噌汁があまりにおいしいので、娘にその秘密を尋ねたが、娘はどうしても教えない。それで太一がこっそり台所を覗くと、娘は鍋のふちにまたがって小便をしていた。それを見た太一が驚いて「あっ」と叫ぶと、娘も驚いたが、見られてしまったので、自分はあの日太一に助けられた鯛であると正体を告げて値賀崎の海に飛び込んだ。その後、海の中で、大きな鯛が、いかにも名残惜しそうに泳いでいるのが見えたという。
(コメント)
本シリーズの「蛤嫁」(藤津地区)も、主人公を蛤とするだけで全く同じ内容の話です。この話では主人公は鯛となっており、玄界灘に面し海産物の豊富な唐津地方らしい話に仕上がっています。TVのシリーズ物で佐賀の昔話として取り上げられたこともあります。
話型としては、本格昔話の「異類婚姻譚」の「異類女房」に属する話で、通常は本格の昔話になるところですが、笑話化しているところが面白いと思います。 (佐賀民話の会)
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音声 |
57 |
藤津 |
岳の新太郎さん |
藤津郡
太良町上川原 |
小渕 力平 |
明治40年
(1907) |
太良の民話 |
(あらすじ)
岳の新太郎さんのことを妙権新太郎とも言います。
この新太郎さんが多良岳から下りてくるのはほとんど長崎県側だったようですが太良町のあちこちに美男子の新太郎さんに通う女の人がいたそうです。
このため、新太郎さんは女の人から惚れられて、逃げて廻らなければならなかったそうです。
(コメント)
多良岳のお寺に住んでいた新太郎という寺侍と村里の娘との伝説です。聞取り資料からみると、神埼市三田川で「ざんざ節」として「嫁さん茶講(ちゃごう)」で歌われたものが、脊振町鳥羽院、多久市多久町、そして太良へと伝わり定着したものと考えられます。(佐賀民話の会)
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58 |
藤津 |
七夕さんのはじまり
(天女の羽衣) |
嬉野市塩田町美野 |
蒲原 タツエ |
大正5年
(1916) |
蒲原タツエ媼の語る843話 |
(あらすじ)
若い男が、水浴びしていた天女の羽衣をこっそり隠した。天に戻れなくなったと泣く天女を男が家に連れ帰り、二人は夫婦になった。二人の娘が三歳になった宮詣りの日、娘はつい母親(天女)に羽衣のありかをしゃべってしまった。母親は天が恋しくなり、「私に会いたくなったらこの種を蒔きなさい」と、娘に三粒の夕顔の種を残して天に帰った。 男と娘は早速夕顔の種を蒔き、伸びたつるを伝って天に昇って行った。天には夕顔の実がたくさんなっていたが、父親が母親の天女との約束を破ってその実をちぎると、実からみるみる水があふれ、大水になって父娘は地上に流されてしまった。
(コメント)
この話の前半部分は、世界的な分布をもつ白鳥処女説話の流れを汲む話であり、日本国内では羽衣伝説として、各地で古くから伝承されてきています。
県内では、他には、北部で1話確認されているのみです。
天女との結婚が結局は結ばれないこと、また、その原因を人間側が作るとする点は異類婚姻譚の約束事の一つで、この話も、この約束事がしっかり守られています。(佐賀民話の会)
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音声 |
59 |
藤津 |
月見草の花嫁 |
嬉野市塩田町美野 |
蒲原 タツエ |
大正5年
(1916) |
蒲原タツエ媼の語る843話 |
(あらすじ)
とても声の良い馬子がいた。毎朝馬の飼葉を刈りながら歌う馬子の声に、山の草木も聞き惚れるほどだった。ある時彼の元に美しい娘が訪ねてきた。娘は「あなたのお嫁さんにしてください」と頼み、しばらく二人は仲良く暮らした。
ある朝馬子が山に行き、馬草を刈って帰ると、包みの中に黄色の月見草の花が一輪、朝露に濡れてそれはもうきれいに咲いていた。馬子はその花を娘に見せようと呼んだが、娘は姿を見せない。家の中を探すと、娘は台所で倒れていた。娘は、抱き起した馬子の腕の中で、自分が前の山の月見草の精であることを打ち明け、こと切れてしまった。
(コメント)
断片は富士町でも採集されていますが、完全な形で採集されたものはこの話だけです。異類婚姻譚というジャンルに属しますが、嫁に来るきっかけが、他の異類婚姻譚ではほとんどが助けられたお礼(報恩型)とされているのに、この話では唄のうまい馬方に惚れたからとされており、異なっています。ただ、異類との婚姻は結局結ばれないとする異類婚姻譚の法則は守られています。なお、本格昔話の中でも本格的な話で、語り手が最も好きな話とのことです。(佐賀民話の会)
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音声 |
60 |
杵西 |
鶴と亀の旅 |
伊万里市立花町渚 |
松尾 テイ |
大正5年
(1916) |
肥前伊万里の昔話と伝説 |
(あらすじ)
空を飛んでいる鶴に、自由に空を飛んだら面白いだろうなと亀が言った。そこで、鶴は亀に棒きれをくわえさせて空に連れて行くことにした。
鶴は絶対にしゃべらないように何度も念を押したが、村の子ども達に返事をするために棒切れから口を離した亀は地面に落ちてしまった。
(コメント)
「よけいなことはしゃべらないこと」という諺の例えとして伝承されてきたものと思われます。他県でも語られているようですが、佐賀県内では珍しい話です。(佐賀民話の会)
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音声
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61 |
佐城 |
鶴と狸の食べ物 |
多久市
北多久町小侍 |
飯盛 康晴 |
明治43年
(1910) |
佐賀の民話 |
(あらすじ)
鶴が「ごちそうする」と言って狸を呼び出した。狸は鶴のところに行ったが、ごちそうが壺や甕など口の狭い器に入っていたのでとうとう食べることができなかった。
狸は鶴に仕返しをしようと思い、「ごちそうする」と言って鶴を呼び出した。鶴が狸のところに行くと、今度はごちそうが平たい皿に盛られていたので、鶴は思うように食べることができなかった。
(コメント)
この話は、狐が狸になっているだけで、イソップ童話の「狐と鶴」と同じ内容の話です。イソップ童話は紀元前にヨーロッパの地で編纂され、日本にはキリスト教の伝来とともに入ってきたとされていますが、この話もそうした過程を経て庶民に広まった話かもしれません。(佐賀民話の会)
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62 |
佐城 |
父さん恋しやチンチロリン (継子と尺八) |
佐賀市
大和町 平野 |
鈴木 カノ |
大正2年
(1913) |
(-) |
(あらすじ)
父親が仕事で京都に行っている間に、後妻の継母が継子の娘をいじめて追い出そうとした。継母は、次々と娘に難題を言いつけ、最後には熱く沸いた風呂に娘を入れて茹で殺し、娘の亡骸を弔いもせず風呂の側に埋めて竹を植えた。 大きくなったその竹を、通りかかった虚無僧が、尺八を作りたいと継母に無心した。虚無僧が京都に行ってその竹で作った尺八を吹いたら、「お母さん恋しやチンチロリン、お父さん恋しやチンチロリン」と何度も鳴った。その音色を父親が聞き、急いで家に帰って継母に娘のことを問いただした。真相を知って怒った父親は、継母を離縁した。
(コメント)
継子話の中では、県内で最も伝承度が高い話です。この話には出てきていませんが、他の話では通常、「味噌豆は七里立ち戻ってでも食べなければならない」とする県内に広く伝わる習俗由来に結びつくことが多いようです。
この話の中に出てくる、京都の町で鳴る尺八の音色は印象的で、話は覚えていなくても、この音色だけは覚えておられるお年寄りも多く、この話を思い出す際のキーワードのようなものになっていると考えられます。 (佐賀民話の会)
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音声 |
63 |
杵西 |
取付こうか引付こうか |
伊万里市立花町渚 |
松尾 テイ |
大正5年
(1916) |
肥前伊万里の昔話と伝説 |
(あらすじ)
優しいお爺さんとお婆さんが山に薪(たきぎ)を取りに行ったところ「取付こうか引付こうか」という声が聞こえたので「取付きやい引付きやい」と答えたら体に大判小判が沢山付いた。
その話を聞いて山に行った隣の意地悪お爺さんの体に取り付いたのは松脂だった。松脂が体から取れないので、意地悪お婆さんは松脂に火を付けてしまった。
そのため意地悪お爺さんは焼け死んでしまった。
(コメント)
「おむすびころりんこん」(採話地:伊万里市立花町渚)や「ぐうずのものいい」(採話地:三養基郡基山町園部)と同じくいいお爺さんと悪いお爺さんの対比を主題とする「隣の爺型」に属する話のひとつです。中国地方に採集例が多いようですが、佐賀県内では珍しい話です。(佐賀民話の会)
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音声
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64 |
三神 |
長い名の子 |
三養基郡みやき町
東津 |
石井 良一 |
明治35年
(1902) |
三根の民話 |
(あらすじ)
長生きをするようにと長い名前を付けられた息子がいました。小さい頃はよかったのですが、自分で歩くようになるとその息子を捜すのが大変でした。
ある日、その息子が井戸に落ちたので、近所の人に助けを求めました。ところが、長い名前なので助けるまでに時間がかかってしまい、息子は溺れて死んでしまいました。
それに懲りて、後で生まれた子どもには短い名前を付けました。
(コメント)
落語の「じゅげむじゅげむ」で有名です。佐賀県内では、この話に出てくる名前の他に、「うんとてんとやきやまじろう、......」(神埼市)、「チョコチョピイノ長三郎、......」(太良町)など、いろいろな名前で語られています。(佐賀民話の会)
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65 |
東松浦 |
涙がこぼれる、
泥鰌汁 (勘右衛門話) |
唐津市厳木町天川 |
草場 マチ |
明治44年
(1911) |
厳木の民話 |
(あらすじ)
寄合で、皆でとったどじょうを鍋にして食べようと火にかけた時、かんねさんが戸の外から「何かこぼれそうだから開けてくれ」と声をかけた。「何がこぼれるのか」と聞いても「とにかく開けてくれ」というので、こぼれるほど何があるのだろうと思って戸を開けてみると、かんねさんが豆腐を一丁持って「涙がこぼれる。俺もこの寄合に加えてくれ」と言う。
中に入れてやると、かんねさんは持ってきた豆腐を鍋の中にぽちゃんと入れた。熱くなっていたところに冷たい豆腐がきたものだから、どじょうたちは一斉にその中にもぐりこんだ。するとかんねさんは「やっぱり寄合に参加するのはやめた」と言って、その豆腐を持って逃げていった。
(コメント)
唐津市の裏町に住んでいたとされる勘右衛門(カンネ)さんの話とされていますが、伝承範囲は唐津市を中心として県内の広範囲に及んでいます。また、頓智話から愚か者話まで数多くの話が伝承されていますが、その中でも採集数の最も多い話がこの話です(東松浦地区「勘右衛門話」(一番高っか山)等参照」)。この話には、どこの村にでもいるような若者が勘右衛者として登場しており、こうした点も伝承を拡大させる要因のひとつになったと考えられます。(佐賀民話の会)
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音声 |
66 |
藤津 |
縄ぎれ一本で庄屋の聟
(縄ひとすじ) |
嬉野市
塩田町 美野 |
蒲原 タツエ |
大正5年
(1916) |
蒲原タツエ媼の語る843話 |
(あらすじ)
常日頃父親から物を大切にするよう教えられていた息子が旅に出た。息子は父の教えを守って、道端に落ちていた縄ぎれを拾い大事に持って行った。その縄ぎれを、大根を括る縄が足りずに困っていたお百姓さんに渡すと、お百姓さんは喜び、息子に大根を三本くれた。息子がその大根を持って歩いていると、今度は鍛冶屋に呼び止められた。大根を分けてやると、鍛冶屋は御礼に包丁をくれた。 その後包丁が弓矢に変わり、息子は弓矢を持って宿屋に泊った。夜中に弓矢を触っていて、誤って矢を放ってしまったが、矢はたまたま隣の大金持ちの蔵に忍び込もうとしていた大泥棒の大将に当たった。泥棒を退治してくれたと隣の金持から感謝され、息子はその家の婿になって幸せに暮らした。
(コメント)
よく知られている「わらしべ長者」の佐賀県版といったところです。
県内ではほとんど採集例がありません。交換していくものが次第にいいものになっていく点がこの話の特徴ですが、最後の運よく泥棒を捕まえて長者の婿養子になるというのは、他の話でもよく使われるパターンです。 (佐賀民話の会)
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音声 |
67 |
佐城 |
肉付きの面 |
佐賀市
諸富町西寺井 |
井上 リエ |
明治40年
(1907) |
諸富の民話 |
(あらすじ)
お嫁さんが寺にお詣りするのを姑さんが嫌って、お詣りに行かせないように仕事を次々と言いつけた。しかし、お嫁さんはどんどん仕事を片付けて、お詣りに行ってしまう。そこで姑さんは、お詣りに行く途中でお嫁さんを脅かそうと、鬼の面をつけてやぶから飛び出した。それでもお嫁さんはこわがらず、心の中で念仏を唱えながら無事に通り過ぎた。
姑さんが家に帰ると、鬼の面が取れなくなっていた。それで、お嫁さんの前で懺悔し、仏様にお祈りをしたら鬼の面が外れた。
(コメント)
県内での伝承度は高く、お寺で説教話として話されてきたものが広まったのではないかと考えられます。この話の中には、無理やり面を取ろうとして肉が付いてきたとするものや、お寺に肉の付いた面が置いてあるお寺があるものもあり、より地元に根付いて伝説化していく傾向がみられます。(佐賀民話の会)
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68 |
佐城 |
にわか侍 |
佐賀市大和町仲 |
山本 清吾 |
明治36年
(1903) |
(-) |
(あらすじ)
庄屋さんの家に泊まった魚売りが、部屋に飾ってあった槍を振り廻すと天井裏に隠れていた泥棒を仕留め、その手柄で庄屋さんの婿となった。
その後、殿様から大蛇退治を命じられたので村人を家来にして山に出かけたら、大蛇に襲われて気絶したが、その間にもっかす(籾殻)を飲み込んだ大蛇は窒息して死んでいた。
大蛇に止めを刺し、村人と一緒に村へ帰る途中、ため池に落ちたのでもがいていたら、大きな山いもを掘り出し、袖には鯉が入っていた。
(コメント)
佐賀市大和町松梅地区(語り手が住んでいた所)や神埼市脊振町広滝鹿路地区は、つるし柿にするための柿むきが盛んな土地で、晩秋になると、夜なべ仕事に、家族または数軒が共同で、土間に山のように積まれた柿の皮をむく作業が行われていました。この作業の場で眠くならないように語られていたのが「柿むき話」で、この話のようなおもしろい話がもてはやされたようです。以前は、新しい年を迎えるために柿むきの場を清める際、盲僧に語ってもらうこともありました。(佐賀民話の会)
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69 |
杵西 |
猫と和尚さん
(猫の恩返し) |
伊万里市
立花町 渚 |
松尾 テイ |
大正5年
(1916) |
肥前伊万里の昔話と伝説 |
(あらすじ)
山里の貧乏なお寺で、和尚さんと年とった三毛猫が仲良く暮らしていた。ある日三毛が本堂で和尚さんの衣を着て、たくさんの猫たちと騒いでいるのを見て、年をとって化猫になったのだと考えた和尚さんは、三毛に寺を出ていかせた。 その後和尚さんはさびしくなり、三毛の行方を案じていた。すると一月ほどして三毛が戻ってきて、ある村の武芸者が亡くなったが、葬式が出せずに困っているから訪ねて行ってくれと言う。和尚さんが翌日その家を訪ね、念仏をあげると(三毛の妖力の助けがあって)無事葬式を出すことができた。それが評判になり、和尚さんに法事の依頼がたくさん来るようになって、立派な寺が建った。
(コメント)
県内では珍しい話です。
有名な佐賀の化け猫騒動の話や本シリーズの「猫と南瓜」(佐城地区)のように、県内では通常、猫を化物とする話が多い中で、猫の報恩を扱った本格的な話です。 (佐賀民話の会)
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音声 |
70 |
佐城 |
猫と南瓜 |
多久市
東多久町池ノ平 |
江口 マチ |
大正10年
(1921) |
多久市史 |
(あらすじ)
庄屋さんの家で、いつもごちそうの残り物を食べていた猫が、叩き殺されて裏庭に埋められた。すると、しばらくしてそこからツルが伸び、大きなカボチャがひとつだけなった。
庄屋さんがそのカボチャを食べたら死んでしまった。変だというのでそこを掘ってみたら、そのカボチャは猫の目から生えていた。
だから、「ひとつだけなったカボチャは食べてはいけない」という。
(コメント)
この話は佐賀平野部において多数伝承されています。話の最後に付いている諺には、この他にも、「ジネンボク(自然に生えた物)は食べてはいけない」とするものなどがあります。
猫の話は、講談で評判を呼んだという佐賀の化け猫騒動が有名ですが、この話の伝承背景には、こうした講談の影響もあったのかもしれません。猫に対する庶民の見方の一端を表している話といえます。(佐賀民話の会)
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音声 |
71 |
杵西 |
鼠と狐の競争 |
伊万里市立花町渚 |
松尾 テイ |
大正5年
(1916) |
肥前伊万里の昔話と伝説 |
(あらすじ)
狐に馬鹿にされていた鼠が狐に競走を提案しました。
鼠は仲間と話し合って、スタートとゴールを分担し、狐よりも早くゴールできるように見せかけ、キツネとの競走に勝ちました。
人間も力だけではなく知恵がなければいけないということです。
(コメント)
「もずと白さぎと狐」(採話地:鳥栖市永吉町)と同じく、ずる賢い狐が知恵のある動物に負かされる話です。この動物昔話も、佐賀県内では珍しい話のひとつです。(佐賀民話の会)
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音声 |
72 |
藤津 |
寝太郎と鼠
(小判の虫干し) |
嬉野市塩田町美野 |
蒲原 タツエ |
大正5年
(1916) |
蒲原タツエ媼の語る843話 |
(あらすじ)
いつも寝てばかりいるので寝太郎と呼ばれている男が、ある天気の良い日、山の頂上まで登った。眠気をこらえて座っていると、ネズミが岩の上に小判をひろげ虫干しをしているところにでくわした。寝太郎は、珍しいと感心しながら二時間ほど眺めていた。
その夜寝太郎の家にきれいな女の人が訪ねてきて、寝太郎が小判の虫干しの番をしてくれたお礼にと、寝太郎の母親に紙包みを渡した。紙包みには小判が三枚包んであったが、その小判は使っても使っても減らなかった。寝太郎は、眠らずに目を開けていただけでこんなに良いことがあるのだからと、そこから先は寝ずに働き、金持ちになった。
(コメント)
全国的にも、また、県内においても珍しい話です。
鼠が富をもたらすという要素は、「鼠浄土」にも出てきており、昔話では、よく使われる要素の一つです。さらに、この話には、寝てばかりいても徳がある者には、結局富が転がり込むという運命論的な考えも背景に隠されているように思われます。(佐賀民話の会)
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音声 |
73 |
三神 |
念仏へいさん |
三養基郡
基山町永田 |
平野 芳郎 |
大正2年
(1913) |
基山の民話 |
(あらすじ)
何かにつけ「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えていたへいすけさんは、年をとって亡くなると、それまで唱えた念仏を大きな風呂敷包みにして背負ってあの世へと旅立った。
極楽と地獄の分かれ道で仁王さんがその風呂敷包みの中は何かと尋ねた。へいすけさんは「念仏でございます」と答えたが、仁王は赤鬼・青鬼に調べさせた。鬼たちがその念仏を"み"ですくいふるってみると、なかみがあったのはたった3粒だけだった。それはへいすけさんが若い頃に雷に打たれそうになった時、思わず唱えた「南無阿弥陀仏」だったという。
(コメント)
念仏ばかり唱えている人を笑った話ですが、同様な話はこれまで採集されていません。
語り手によると、「念仏へいさん」は語り手の地元(基山町の旧小倉村)にいたとのことで、この話の他にも同じ主人公の話が伝承されているかもしれません。(佐賀民話の会)
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74 |
東松浦 |
糊地蔵 |
唐津市厳木町天川 |
田久保 進 |
明治44年
(1911) |
厳木の民話 |
(あらすじ)
お爺さんが柴刈りから家に帰り、食べ物がないか棚を探していたところ、お婆さんが作っていた洗濯糊を頭から被ってしまいました。
それで、裏山の日が当たるところで糊を被った体を乾かしていたら、たくさんの鬼が出てきて、本当の白仏様と間違えた鬼から沢山のお金をもらいました。
話を聞いた隣のお爺さんも同じように糊を被って裏山にいきましたが、人間であることがばれてしまい、鬼たちからからかわれてしまいました。
(コメント)
葛藤を主題とした「隣の爺型」の話型群に属する昔話で、この型の話は佐賀県内でもたくさん伝承されています。ただ、糊をモティーフとする話は珍しく、貴重な話となっています。(佐賀民話の会)
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音声 |
75 |
藤津 |
蛤嫁 |
嬉野市塩田町美野 |
蒲原 タツエ |
大正5年
(1916) |
蒲原タツエ媼の語る843話 |
(あらすじ)
汁物がとても好きな男が、氏神様に美味しい汁物を食べさせてくれるお嫁さんをお願いしたところ、ある女の人からお嫁さんになりたいと言われ、お嫁さんにしました。
このお嫁さんの作る汁物はいつも美味しかったのですが、それを不思議に思った男は、こっそりとお嫁さんが汁物を作るのを見ていました。
すると、お嫁さんはお鍋にオシッコをして汁物作っていました。それを叱られたお嫁さんはが海に飛び込むと大きな蛤だったそうです。
(コメント)
人間と動物などとの婚姻を主題とする「異類婚姻譚」の中でも異類が嫁になる話です。嫁になる異類が蛇や狐である話と異なり、笑い話的な要素を含んでいます。同じような話は佐賀県内では、蛤の代わりに鯛や鯉などが登場するものがあります。(佐賀民話の会)
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音声 |
76 |
佐城 |
半馬鹿者の西目行き
(善兵衛話) |
多久市
東多久町 古賀 |
樋口 福太郎 |
明治19年
(1886) |
多久市史 第5巻 |
(あらすじ)
少し足りない善兵衛が、冬に薪を取りに行った杉山で、自分が死んでしまったと思い込み、「死んだ時は『西目』に行かなければならない」と、そのまま西に向かって歩いて行った。波戸岬まで行って、出会ったお百姓さんにこの辺りが西目だと言われ、そこで働くことにした。お盆が来て、善兵衛は、自分の初盆だからと実家に帰った。実家では善兵衛の初盆のお供えをしていたが、仏壇に上ってお供えの団子などを食べていた善兵衛を見つけて皆が騒ぎ立てた。仏壇から下り裏口に行って外を眺めている善兵衛に、父親が「何をしているか」と言うと、善兵衛は「みんながうるさいから、自分はいま恨みよる(裏見よる)」と言った。
(コメント)
主人公の名前が善兵衛ということから、以前は、「善兵衛話」なる話型群があったかもしれませんが、今のところ、この話だけしか確認されていないのは残念です。
死んだら西目(佐賀の方言で「西の方」)に行くとすることや、お盆の話など、佐賀の葬送に関する習俗が出てきており、佐賀らしい話になっています。(佐賀民話の会)
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77 |
佐城 |
肥前の蛙と筑前の蛙 |
佐賀市三瀬村唐川 |
藤井 尚弘 |
明治39年
(1906) |
佐賀百話 |
(あらすじ)
ある天気の良い日、肥前の蛙が筑前見物に、筑前の蛙が肥前見物に出かけようと、三瀬峠を登って行った。峠の頂上で出会った二匹は、あいさつをして、「三瀬峠だから肥前も筑前ももう一息。ここでちょっと眺めてみよう」と立ち上がった。
しかし、蛙の目は頭の後ろに付いているものだから、肥前に行こうとした筑前の蛙は見慣れた筑前の風景を眺め、筑前に行こうとした肥前の蛙は肥前の風景を眺めることになった。それに気づかず、お互いに、「筑前も肥前も変わらない。これより先に行くよりも帰った方がまし」と言って見物をやめて帰って行った。
(コメント)
峠を越えれば他国という時代を彷彿とさせる話です。三瀬峠だけでなく、峠があれば、全国どこででもこの話が伝承されています。特に、大阪の蛙と京都の蛙の話は、全国的に有名です。 動物に仮託して井の中の蛙になる人間の愚かさを笑っているともとれますが、それだけ昔の人は、峠で囲まれた世界で一生を過ごすことが多かったということでしょうか。(佐賀民話の会)
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78 |
藤津 |
火の神さんと
塞の神さん |
嬉野市塩田町美野 |
蒲原 タツエ |
大正5年
(1916) |
蒲原タツエ媼の語る843話 |
(あらすじ)
八天神社は火の神(火伏の神)である。火の神は、いつも火事が起こらないよう全力で見回りをして、村人を守っていた。隣に住む塞の神は寝てばかりで、働かないから金もなく、とうとう火の神に借金をした。火の神は快く貸し、「年末に元金をきちんと返すように」と言った。
その後も寝てばかりで年末になっても返済の目途がたたず焦った塞の神は、近所から少しずつ藁束を盗んで火をつけ家を燃やし、火の神に、返済用の金も燃えたと嘘をついた。火の神は塞の神に「返さなくていい」と言い、火事見舞いまで渡した。その後毎年塞の神は、暮れになると近所から藁を盗んで火をつけて、借金返済を逃れるようになった。
(コメント)
嬉野市塩田町の八天神社では、通常、小正月にやる「どんど焼き」(佐賀では「ほんげんぎょう」という名称が一般的)を年末にやるようですが、その由来として語られているのがこの話です。単なる伝説としてだけではなく、神様の性格、行動などが面白、可笑しく表現され、話の内容も豊かで、聞きごたえのある話に仕上がっています。なお、祐徳稲荷の火祭りは12 月8日にお火焚き神事として行われています。(佐賀民話の会)
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音声 |
79 |
杵西 |
灰坊
(継子の風呂たき) |
伊万里市
南波多町古里 |
松高 ソノ |
明治22年
(1889) |
波多の民話 |
(あらすじ)
大きな庄屋の息子に生まれながら、継母に疎んじられ殺されそうになった子が、ある屋敷で風呂焚きに雇われた。その子は身元を隠し、それまで着ていた立派な着物もしまい、毎日灰にまみれて、灰坊(ひゃあぼく)と呼ばれながら働いていた。
ある時村に芝居が来て、風呂焚きの下男たちは盛装して芝居見物に出かけた。灰坊も、しまっていた立派な着物を着て出かけた。日頃の姿から想像もできない男ぶりだった。その後盛装した灰坊にその屋敷のお嬢さんが一目惚れして、灰坊はその家の跡取り婿になった。
(コメント)
全国的な話ですが、県内での採集例は少ないようです。継子話の主人公は女の子がほとんどですが、この話は珍しく男の子が主人公となるものです。
灰坊と言われる煤けたみすぼらしい姿と綺麗な着物を着た凛々しい姿のコントラストが印象的な話です。また、この話には出てきませんが、祝儀歌である「祝めでたの若松様よ」の若松がこの話の主人公とする話も多いようです。(佐賀民話の会)
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80 |
藤津 |
貧乏神と福の神
(大歳の客) |
嬉野市塩田町美野 |
蒲原 タツエ |
大正5年
(1916) |
蒲原タツエ媼の語る843話 |
(あらすじ)
大晦日の晩、みすぼらしい格好のお坊さんが泊まるところを探していたが、町外れの権太さんの家だけが泊めてくれた。
元旦のお昼頃になってもお坊さんが起きてこないので不審に思ったお爺さんが布団をめくったところ布団の中は千両箱だった。
泊めたお坊さんは福の神で、権太さん一家はよい正月を迎えた。
(コメント)
「ぐうずのものいい」(採話地:三養基郡基山町園部)と同じように、大晦日の晩には不思議なことが起こるとされる話のひとつで、全国的に伝承されています。このような話の伝承背景には、日本古来のまれびと信仰があるとも言われています。(佐賀民話の会)
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81 |
三神 |
ふゆうぼうと目一つ坊
(怠け者の話) |
神埼郡
吉野ヶ里町 辛上 |
大野 栄作 |
不詳 |
続・脊振山麓の民俗 |
(あらすじ)
怠け者の男が、自分のかわりに仕事をする者が欲しいとお釈迦様に頼み、目一つ坊という化物をもらった。目一つ坊は、とてもよく働くが、仕事がなくなり暇になると男を食ってしまうという。怠け者の男が目一つ坊に稲刈りや脱穀をさせたところ、あっという間に仕事を終えてしまうので、困った男は犬(狆)の巻いたしっぽをまっすぐ伸ばせと目一つ坊に命じた。目一つ坊が、犬のしっぽをまっすぐに伸ばすが手を離すとまた巻いてしまうというのを繰り返しているすきに、男はお釈迦様の所へ行き、これからは一生懸命働くと約束して、目一つ坊を引き取ってもらった。(…という夢を見て改心した。)
(コメント)
ふゆうぼう(佐賀の方言で「怠け者」)と目一つ坊(ぼう)の名前を対にしているところなど、よく考えられた教訓譚です。県内では同じ話は見つかっていません。
この話に登場する「ちん」という犬は、飼育が一般に広まったのが江戸時代からと言われており、この話も江戸時代にできあがったのかもしれません。 (佐賀民話の会)
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82 |
杵西 |
屁の敵は屁で討つ |
西松浦郡
有田町広瀬山 |
森 トワ |
明治43年
(1910) |
佐賀の民話No.3 |
(あらすじ)
どこからか「この辺りに屁ふりの名人はいないか」と訪ねてきた女がいた。その家の姑さんが「うちの嫁もすごい屁をふるが、今はいない」と答えると、女は「実力を見せてやる」と屁をふり、姑さんを吹き飛ばした。
お嫁さんが帰ってくると姑さんが道端に倒れていた。介抱すると息を吹き返し、事の顛末をお嫁さんに話した。するとお嫁さんは、その女が帰る道を聞き、臼を持ち出してきて屁をふった。吹き飛ばされた臼は、歩いていた女に命中した。
(コメント)
同じ屁の話でも、屁で財宝等を得る「屁ひり嫁」の話は県内でもよく聞かれますが、この話のように屁比べをするものは珍しい話です。西有田から屁で飛ばした臼を白石の当たりを歩いていた人に当てたというのですから、20 ㌔以上も飛ばしたことになり、凄い屁の力です。こういう話は笑話の中でも大話というジャンルに分類されます。(佐賀民話の会)
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音声 |
83 |
三神 |
屁ふり嫁さんの
雁落とし |
三養基郡
基山町白坂 |
天本 貞次 |
明治37年
(1904) |
基山の民話 |
(あらすじ)
ある男が、すごい勢いでおならをして雁を落とすという娘をお嫁さんにした。その特技を殿様に見せようと、夫婦とその家族は殿様の行列が通るのを待ち受けた。家来が一度は阻んだが、たいへん珍しい特技だというので、殿様が見ることになった。
嫁さんは、まず行列の侍を4、5人、吹き飛ばしてみせた。その後、空を飛ぶ雁の列めがけておならをすると、雁がボトボト落ちてきて、その辺にいた侍も四方八方に飛ばされた。しかし殿様の方にはいかないようにしたので、殿様から「さすがだ、こんな屁をひる者は珍しい」とほめられ、褒美をもらった。
(コメント)
全国でも高い伝承度を誇っている話です。県内でも人気の高い話の一つです。
こうした屁を話題にした話は、いつの時代も庶民に人気をはくしていたようで、「佐賀の昔話」の中にも、他に「金のなる木」、「屁の敵は屁で討つ」が見られます。
屁ひり嫁の話は、柿を落として褒美をもらうものや「へや」という言葉の由来に結びつけているものなど色々ありますが、ほとんどが屁の力で裕福になる結末となっています。(佐賀民話の会)
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84 |
三神 |
ヘヘラヘーと
ホホラホー |
鳥栖市永吉町 |
佐藤 作一 |
明治44年
(1911) |
とすの口承文芸 |
(あらすじ)
殿様が釣った魚の名前は、「ヘヘラヘー」だと物知り爺に教えられましたが、城に持ち帰って干物にしたら、形が変わってしまったので、もう一度名前を聞くと「ホホラホー」だと答えました。
名前が違うことに立腹した殿様は手討ちにしようとしましたが、「鯣(するめ)は烏賊(いか)を干したものだが、もし烏賊を鯣だと言うとお手討ちになるから烏賊を鯣だと言ってはならない。」と物知り爺が子供に遺言しました。
それを聞いた殿様は考え直し、物知り爺を許して、褒美まで与えました。
(コメント)
魚の名前は違っていますが、同じような内容の話は他県でも語られています。佐賀県内では唐津の勘右衛門話(かんねばなし)などにもみられます。(佐賀民話の会)
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85 |
三神 |
ポンポコリンの屁
(屁ひり爺) |
鳥栖市飯田町 |
高尾 キクノ |
大正4年
(1915) |
とすの口承文芸 |
(あらすじ)
お爺さんが畑に行くときれいな鳥がとんできた。火の付いた木を投げて、その鳥をつかまえて食べたら、「ポンポン」という珍しい屁がでた。おじいさんが殿様に聞かせに行ったところ、「ポンポコリン」と鳴ったので、たくさん褒美をもらった。 それを聞いた隣のお爺さんが自分も褒美をもらおうと、同じように畑で鳥をつかまえて食べ、殿様のところに行った。殿様の前で屁を出そうと力んだら本物が出て、きつい咎めを受けた。
(コメント)
全国で伝承が確認されていますが、県内では珍しい話です。
「花咲爺」に代表される「隣の爺型」と呼ばれる話型群に属する話ですが、「花咲爺」とは、福を持たらすものが犬ではなく自らの屁という点に違いがあります。
屁をテーマにした昔話は人気が高く、このシリーズでも、「屁の仇は屁で討つ」(杵西地区)や「屁ふり嫁さんの雁落とし」(三神地区)を取り上げています。 (佐賀民話の会)
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86 |
三神 |
ポンポン鳥 |
神埼市神埼町
石井ヶ里 |
石松 ノブ |
明治34年
(1901) |
吉野ヶ里の民話 |
(あらすじ)
お姑さんとお嫁さんが草取り作業に出かけました。お昼になってお嫁さんhあお腹が空いてしまいましたが、お姑さんはお握りを隠れて食べていたので12時になってもお姑さんがお昼ご飯にしませんでした。
このため、空腹を我慢していたお嫁さんが堪らずに「あがろうポン」と騒いだのでポンポン鳥がいます。
(コメント)
小鳥の鳴き声などの由来を説く小鳥前世譚という話型群に属する話です。この話は全国的に採集例がみあたらず、貴重な話の一つとなっています。(佐賀民話の会)
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87 |
東松浦 |
松浦佐用姫伝説 |
唐津市
呼子町加部島 |
山口 初太郎 |
明治36年
(1903) |
(-) |
(あらすじ)
長者原にいた松浦佐用姫は、韓の国に向かう大伴狭手彦と恋仲になった。狭手彦が出航すると、恋い慕う佐用姫は後を追った。最初は唐津の鏡山の領巾振り松。それから松浦川。川を渡る時に、狭手彦から貰った鏡や短刀を落としてしまった。川の中を探しても見つからず、濡れた衣を干したのが衣干山。最後が呼子の加部島。田島大明神に戦勝を祈願した。
そして船が見えなくなると、佐用姫は恋につかれ病に冒された。老夫婦に介抱してもらったが、彼らが止めるのも聞かず病気の体で無理に天童岳に登り、頂上でとうとううつ伏せに倒れてしまった。それが今の佐用姫神社にある佐用姫石である。
(コメント)
多久市から唐津市にかけて広く伝承されている佐賀県では有名な伝説の一つです。また、「肥前風土記」等にも関連の話が見えるなど、古くから伝承されてきた話のひとつでもあります。伝説は、昔話とは異なり、地名や岩、松などの特定のものに強く結びつけられること等から、説明的な話に終始することが多いようで、この話も簡単なものになっているのが残念です。(佐賀民話の会)
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88 |
佐城 |
継子の歌詠み(皿々山) |
小城市
牛津町宿古賀 |
七田 ムラ |
明治39年
(1906) |
牛津の民話 |
(あらすじ)
継子の娘が川で米を洗っていると、伯耆(ほうき)の国の殿様が通りかかった。娘は殿様が詠みかけた歌にうまく応えたので気に入られ、嫁に迎えられることになった。
家来が娘を迎えに来ると、継母は実の娘を着飾らせて差し出した。すると家来は、皿に塩を乗せて、娘に「歌を詠め」と言った。しかし娘はうまく詠めなかったので、「この娘ではない、もう一人娘がいるはず」と、継子の娘を連れてこさせた。同じように歌詠みさせると、継子の娘は見事に詠んだので、「ああこの娘だ」ということになり、継子の娘が晴れて殿様の嫁になった。
(コメント)
継子話は、佐賀では伝承度が高くよく聞かれる話ですが、その中でもこの話は、よく聞かれます。 この話の特徴は、歌が頻繁に出てきて、継子の利口さを強調している点です。歌は継子話だけでなく、日本の昔話によく使われる小道具のひとつです。 継子が嫁いでいく際に継母が箒で追い出す所作も歌になっていますが、婚姻の際の習俗が話の中に取り込まれており、面白いと思います。(佐賀民話の会)
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89 |
佐城 |
豆と石と藁の旅 |
小城市
牛津町宿古賀 |
七田 ムラ |
明治39年
(1906) |
牛津の民話 |
(あらすじ)
空豆のふちが黒くなっている理由は─。
空豆と石と藁が旅に出た。長い川があって対岸に渡れる橋がひとつも無かったので、どうやってこの川を渡ろうかと思案していたところ、藁が「自分が橋になろう」と申し出た。豆と石はどっちが先に渡るかをじゃんけんで決め、先に石が渡ったが、重みに耐えかねて藁が落ち、流れてしまった。
残された豆は大泣きした。あまりにも泣くので(神様から)「もう口を縫ってしまえ」と言われたから、あわてて白糸ではなく黒糸で縫ってしまった。だから空豆の縁は黒いのである。
(コメント)
この話は、動物の鳴き声や形態の由来を説く話(佐城地区「蛙の親不孝」参照)と同じように、植物の形態の由来を説く話の一つです。話の内容からみて、幼少の子供に聞かせる話として伝承されてきたのではないかと考えられます。(佐賀民話の会)
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音声 |
90 |
藤津 |
ミソゴロドンの
有明海干拓(巨人伝説) |
鹿島市山浦中木庭 |
古賀 安夫 |
昭和7年
(1932) |
(-) |
(あらすじ)
多良岳に住む巨人ミソゴロドンは、毎日有明海に釣りに出かけていた。ある日珍しい岩を見つけ、叩いたらポンポンとなったので、太鼓にいいと思って持ち帰ったが、重くなったので途中で放り投げた。それがいまも奥山にある「チャアゴ岩」である。
ミソゴロドンは多良岳の土を持って日に何度も有明海に下り、有明海を半分ほど干拓した。疲れたので村人に好物の味噌を食べたいと頼んだが、村人が断ったためミソゴロドンは腹を立て、そこら辺の土を蹴っ飛ばした。その飛んだところが鹿島の五の宮神社の森で、そこの植物は多良岳に生えているものと同じであるという。
(コメント)
常陸風土記等の古い文献に同じような巨人伝説が出てきていることなどから、この話も古くから伝承されてきている話と言えます。
県内には、この太良岳の話のほか、伊万里湾の島は巨人が山の土を投げて作ったとするものや、鳥栖の朝日山は巨人が担ったもっこの土がこぼれてできたとするものなど、多数みられます。また、必ずと言っていいほど、併せて、巨人の足跡と言われる池や堤などの話が伝承されています。
佐賀県の昔話にしては珍しく、スケールの大きさ(有明海の干拓)と自然の雄大さ(多良岳と有明海)を感じさせる話です。(佐賀民話の会)
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91 |
佐城 |
飯を食べん嫁さん
(五月五日の菖蒲由来) |
佐賀市大和町下村 |
堀 サワ |
大正3年
(1914) |
(-) |
(あらすじ)
働き者の男が嫁さんをもらったが、嫁さんはよく働くのに全くご飯を食べなかった。不審に思った男が、ある時炊事場をこっそりのぞくと、嫁さんが頭にある口にしゃもじでご飯を放り込んでいた。実は嫁さんはクモの化物だった。
クモは、見られたことを知ると男をつかまえ、山の中で食べようともっこで担いで山を登って行った。途中で男はこっそり逃げ出し、麓の寺に逃げ込んで、寺の和尚にショウブ畑の中に隠してもらった。追っかけてきたクモは男の匂いを頼りに探すが、ショウブの匂いが強くて見つけることができず、「逃げた日にまた来る」と言って帰って行った。
(コメント)
「逃鼠譚」と呼ばれる災いから逃れることを主題とする話型群に属し、全国に分布しています。佐賀でも伝承度が高い話で、ほとんどが、5月5日に菖蒲や蓬を家の軒に上げて魔除けにする習俗の由来に結び付いています。佐賀では、「夜のこぶ(蜘蛛)は、親に似てても殺せ」とする諺の由来に結びつく話も多いようです。
臭いの強い植物は、魔除けになるとする世界共通の考え方が背景にあると考えられます。
この話には出てきませんが、蜘蛛が女に化けて嫁に来る理由は、欲の深い青年が「飯を食わない嫁さんが欲しい」と言ったことがきっかけとなる話が多く、欲張りを戒める意味もあったかもしれません。(佐賀民話の会)
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音声 |
92 |
東松浦 |
目と口のけんか |
東松浦郡
玄海町牟形 |
寺田 一二 |
明治36年
(1903) |
佐賀百話 |
(あらすじ)
むかし、目と口が喧嘩した。口が言うことには「目はきれいなものも汚いものも珍しいものも全部見える、目よりいい思いをしている奴はいない」。ところが目が言うことには「口もうまいものうまくないもの、すっぱいもの辛いもの、食い分けるじゃないか」。
あまり喧嘩が激しくなったので、鼻が仲裁に入った。「目も口もどっちもどっち。喧嘩をやめろ」。すると、目と口が「鼻はたちのけ」というものだから、鼻は怒って「俺がいなくなったらおかしな顔になるぞ」。これで喧嘩はおさまった。
(コメント)
この話は、他に採集例がなく、今のところ佐賀県だけで採集されている話です。笑話の一種ですが、教訓的要素も含んでいるなど、通常の笑い話とは趣を異にしています。(佐賀民話の会)
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93 |
三神 |
もずと白さぎときつね |
鳥栖市永吉町 |
前川 亀太 |
明治27年
(1894) |
日本の民話 九州 |
(あらすじ)
雛を育てていたモズはきつねに雛を要求され、とうとう最後の一匹にまでやってしまいました。
それで、モズが白さぎに相談すると、きつねが木に登れないことを教わりました。
しかし、白さぎから教わったことをきつねにモズが白状してしまったため、白さぎは怒ったきつねに捕まりましたが、うまくきつねをだまして逃げることができました。
(コメント)
ずる賢い狐が知恵のある動物に騙される話のひとつで、他県でも伝承されています。この動物昔話は、佐賀県内では珍しい話です。(佐賀民話の会)
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94 |
藤津 |
餅つきにきた堤の主
(大蛇の餅つき) |
嬉野市
塩田町 美野 |
蒲原 タツエ |
大正5年
(1916) |
蒲原タツエ媼の語る843話 |
(あらすじ)
龍源寺の前に広い堤があり、主の大蛇が棲んでいた。ある年の暮れ、寺で恒例の餅つきをすることになったが、はやり風邪で村の若者がみな寝込んでしまった。困っていると、それを聞いた主の大蛇が若者に姿を変えてお寺に来て、餅を全部ついてくれた。そして主の若者は、お寺の板の間でしばらく眠った後帰っていった。 村人たちは、若者がどこの誰だかわからなかったが、若者に掛けていた布団から大きい蛇の鱗が一枚みつかり、それで皆、堤の主が村人たちが困っているのを知って助けに来てくれたのだと悟った。その後は正月の餅をつくと真っ先に堤の主に備えたという。
(コメント)
白石町にある堤の主である心優しい大蛇の伝説です。
通常、昔話や伝説に登場する大蛇は恐ろしいものとして語られることが多いようですが、この話では地元の人から慕われる優しい大蛇の話となっています。また、杵島山の山里にあるお寺での餅つきの風景が心温まるものがあり、伝説ではありますが、昔話と言ってもいいのではないかと思います。 (佐賀民話の会)
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音声 |
95 |
佐城 |
桃売りの声 (絵姿女房) |
佐賀市長瀬町 |
納富 信子 |
大正14年
(1925) |
さが昔話 |
(あらすじ)
きれいなお嫁さんをもらった男が、お嫁さんの絵を木の枝に下げて眺めながら畑仕事をしていた。その絵姿が風に飛ばされて殿さまの目に触れ、お嫁さんは無理やり城に召し出されることになった。お嫁さんは男に、「とにかく城に桃を売りに来てくれ」と言い残して城に上った。
城でお嫁さんは口もきかず笑いもしなかったが、ある時桃売りの声を聞くと初めてにっこりと笑った。それを見た殿さまは、桃売りの着物と自分の着物を取り替えて、桃売りの物真似をした。城を出て一回りした殿さまが帰ってきたら門は閉まっていて、結局殿さまは城から追い出されてしまった。そして殿さまになった桃売りの男とお嫁さんは、城の中でずっと幸せに暮らした。
(コメント)
この話は、一般的に「絵姿女房」と呼ばれている話型で、嫁の絵を見ながら畑仕事をするか所と、夫を桃売りに化けさせ殿様と入れ替わるか所に特徴があります。本格昔話の中でも本格的な話で、全国的に伝承されていますが、県内での伝承は珍しく貴重な話となっています。(佐賀民話の会)
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96 |
佐城 |
野狐とい金兵衛さん
(尻尾の釣り) |
佐賀市長瀬町 |
納富 信子 |
大正14年
(1925) |
さが昔話 |
(あらすじ)
寒い日の夕方、野狐(キツネ)をだますのが上手な金兵衛さんが、藁帯を尻尾のように長くして堀(クリーク)の中に垂らしていた。
それを見ていた若い野狐が、年寄りの野狐の注意を聞かずに金兵衛さんに近づいて何をしているのか聞いてみると、金兵衛さんはタニシを取っていると答えた。
真似をして尻尾を堀に浸けていた若い野狐は、氷が張って動けなくなったので、金兵衛さんに簡単に捕まえられてしまった。
(コメント)
狐の尻尾が氷浸けになりちぎれるとする話は世界中にあります。この話は、尻尾を氷浸けにする人物が野狐とり金兵衛さんという頓知者になっている点に特徴があります。(佐賀民話の会)
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音声 |
97 |
東松浦 |
ヨイショはダンゴ
(団子聟) |
唐津市
相知町 田頭 |
山本 ハツエ |
大正4年
(1915) |
(-) |
(あらすじ)
少し頭の足りない婿さんが、嫁さんの実家で食べた団子がおいしかったので、家でもつくってもらおうと思い、教えてもらった「団子」という名前をずっとつぶやきながら帰っていた。途中、川に飛び石があったので「ヨイショ」と掛け声をかけて渡ったら、それまで「団子団子…」と言っていたのが「ヨイショヨイショ…」に変わった。そして家に帰って嫁さんに、きょう食べたヨイショがおいしかったから作ってくれというと、嫁さんはヨイショなんて知らないと言って、とうとう喧嘩になった。そして嫁さんが婿さんから火吹き竹で叩かれて「団子のようなこぶができた」と言ったので、婿さんは「ああ団子だった」と思いだした。
(コメント)
「愚か者」という話型群に属する話で、笑話の中では、県内では最も伝承度が高い話になります。
昔は川に橋が少なく、この話のように石を伝って川を渡っていたことや、掛け声の「ヨイショ」が覚えやすいキーワードになっていることなどが、この話を広めた要因だと思われます。なお、掛け声の「ヨイショ」は、「ピントコショ」や「ドッコイショ」など、地域によって異なっていて、そこがまた面白いと思います。 (佐賀民話の会)
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音声 |
98 |
三神 |
夜泣きの地蔵さん |
三養基郡
みやき町向島 |
平 三七十 |
大正9年
(1920) |
三根の民話 |
(あらすじ)
お宮の近くにかわいい女の子が生まれた。でもこの子は夜通し泣くことが何日も続いて、とうとう痩せて死んでしまった。家族はお宮の裏にお地蔵さんを祀り、女の子をねんごろに弔った。
その後近所で生まれた赤ちゃんが夜泣きするときは、このお地蔵さんにお詣りすると夜泣きが止まったという。ある時ひとりだけどうしても泣き止まなかった子がいたが、その子もお地蔵さんの回りの泥を持って帰って枕の下に置いて寝かせると、すやすや眠るようになった。
これが向島の「夜泣きの地蔵さん」の由来である。
(コメント)
語り手の地元(旧三養基郡三根町)にある、夜泣きを治す地蔵さんの由来を説明した伝説です。地蔵さんは子供を護る身近な仏様として日本人に古くから信仰されてきており、この話の他にも、子育て地蔵、子安地蔵(伝説)や笠地蔵、地蔵浄土(昔話)等に、よく登場します。(佐賀民話の会)
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音声 |
99 |
藤津 |
嫁と姑 |
嬉野市嬉野町吉田 |
山上 栄 |
明治41年
(1908) |
嬉野の民話 |
(あらすじ)
お姑さんと大変仲が悪いお嫁さんがお姑さんを殺そうと思ってお医者さんの所に相談に行ったら一週間で死ぬという薬をもらった。お姑さんが死ぬまでしっかり親孝行するようにお医者さんはお嫁さんに言った。
薬を飲ませ始めると二人は仲良くなり、お姑さんを助けてくれるように嫁が頼んだところ、渡した薬は砂糖だと言われ、今後も仲良くするように諭された。
(コメント)
嫁と姑の葛藤を主題とする話は継母と継子の葛藤を主題とする話と同様、佐賀県内ではよく聞かれます。一般的に伝承されている話は全国的に語られている「肉付きの面」や「嫁が見たら蛙になれ」などの話型で、この話は珍しい話です。(佐賀民話の会) |
音声 |
100 |
三神 |
わくど息子 |
三養基郡基山町
白坂 |
天本ハツネ |
明治40年
(1907) |
基山の民話 |
(あらすじ)
子供のいない夫婦に授かった子供はわくど(がま蛙)でしたが、やがて年頃になり、嫁を探すことになりました。嫁を探すために作ってもらったこうばしを、わくどが宿を借りた家の娘さんが食べていました。それで、その娘さんを嫁にすると言ってわくどは強引に連れて帰りました。
婚礼を挙げるために床屋に行くと、床屋は神様で、わくどを立派な普通の男にしてくれました。
(コメント)
ストーリーは一寸法師と似ていますが、主人公はわくど(ガマ蛙)というのがこの話の特徴です。佐賀県内の話では、わくどの他に、蛇が主人公になっているものもあります-。(佐賀民話の会)
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